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 5-(16).浦島太郎の正体(その5)


 当記事は、長らく記載してきた浦島太郎=仲哀天皇の物語の最後です。

 以下では、雄略天皇の残りの物語の解釈、及び、今までの解釈を通じて判明した仲哀天皇の物語のまとめを行いたいと思います。


 なお、拙著では、「仲哀天皇は天皇となることなく死亡し、神功皇后が皇位を取り戻してから天皇の位を与えられたのだろう」という旨のことを記載しましたが、今までの解釈を勘案すると、どうやらこれは誤りのようです。

 「5−(15).浦島太郎の正体(その4)」で記載した通り、仲哀天皇はスサノオに敗北して草薙(くさなぎの)剣を献上しており、それは、仲哀天皇が王権のあかしを持っていたからできたことであって、その時、既に天皇であったことを意味するからです。

 また、説明の都合上、とばしましたが、浦島太郎と逆の構成になっている「三.赤猪子(あかゐこ)」とスサノオに服従した話の「五.葛城山」の物語の間には「四.吉野」の物語があります。その内容は次のものです。
<雄略天皇 五.吉野 (現代語訳)
 天皇が吉野の宮に出かけた時、吉野川の川辺に少女がいた。その少女の姿は美しかった。そこで天皇はこの少女と結婚して朝倉の宮に帰った。

 その後、さらにまた吉野に出かけた時、その少女と出会った所にとどまって、そこに立派な御呉床(みあぐら)を立てて座り(※あぐらをかいて座ったということ)、琴を弾いてその少女に舞をまわせた。するとその少女が巧みに舞ったので歌を詠んだ。その歌は、
 呉床(あぐら)に座っておいでになる神の御手で弾く琴にあわせて舞う少女よ。その美しい姿は永遠であって欲しいものだ。
 と歌った。

 それから、阿岐豆野(あずきの)に出かけて狩りをしていた時のこと。天皇は呉床(あぐら)に座っていた。すると(あぶ)が天皇の腕に食いつくと、すぐにとんぼが来てその(あぶ)をくわえて飛んで行った。そこで天皇は歌を詠んだ。その歌は、
 吉野のおもむろが(たけ)に猪や鹿が潜んでいると、誰が天皇の御前に申し上げたのか。我が大君がそこで獣を待とうと呉床(あぐら)にお座りになり、袖もきちんと着ている腕の内側のふくらみに、(あぶ)が食いつき、その(あぶ)をとんぼがさっそくくわえて行き、このように手柄を立てたとんぼに名をつけようと、大和の国を蜻蛉島(あきずしま)と言うのだ。
 と歌った。それでその時から、その野を名づけて阿岐豆野(あずきの)と言うのである。
 前半部分の歌では天皇が自らを「神」と表現しており、そして、後半部分では、(あぶ)に食いつかれるという、自分に降りかかった災いに対して、勝手にトンボがやってきて災いを取り除くという、天から愛されし様が描かれています。

 これは、仲哀天皇が天皇に即位し、我が世の春を謳歌している様を表現したものでしょう。天皇という人として最高の位についたからこそ、自らを「神」と歌えるのです。

 そして、天皇に即位したからこそ、次の物語である「五.葛城山」で、スサノオに皇位の象徴を譲り渡すという話につながって行きます。


 雄略天皇の条の「三.赤猪子(あかゐこ)」以降の物語が示しているものをまとめておきます。
物語名 示す内容
三.赤猪子(あかゐこ)  浦島太郎と逆の物語を記載することにより、今まで、「雄略天皇→スサノオ」であったのが、この物語より後は、逆の立場である「雄略天皇→仲哀天皇」に変わっているという暗示をする。
四.吉野  我が世の春を謳歌する仲哀天皇の姿。
五.葛城山  先にスサノオに攻撃を仕掛けて敗走する仲哀天皇。
 天皇と同じ格好をしている(=天皇と同等の行動をする)スサノオと一触即発の状況になるが、仲哀天皇が帰順の意を示し、王権の象徴をスサノオに献上する。
六.金鋤岡(かなすきのおか)・長谷の百枝槻(ももえつき)  仲哀天皇の妻問いの様子。
 スサノオを正式に天皇にしてしまった伊勢神宮の巫女(ヤマトヒメ)を仲哀天皇が殺そうとするが、巫女からスサノオの名を出されておどされ、殺すのを諦める。

 さらに、「三.赤猪子(あかゐこ)」の前に挿入されている物語も見てみたいと思います。
<雄略天皇 二.皇后求婚 (現代語訳)
 初めの頃、皇后の若日下部王(わかくさかべのみこ)日下(くさか)にいたとき、天皇は日下(くさか)へまっすぐに越える道を通って河内に行った。

 その時、山の上から国内を遠望すると、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)(※宮殿や神社の棟木の上にこれと直角に並べた木のこと)をのせて造ってある家があった。天皇はその家について尋ねて「その堅魚木(かつおぎ)をのせて家を作ってあるのは誰の家だ」と言ったので、「あれは志畿(しき)大県主(おおあがたぬし)の家です」と答えた。

 そこで天皇は「あいつめ、自分の家を天皇の宮殿に似せて造っている」と言ってただちに人を遣わしてその家を焼かせようとした時、その大県主(おおあがたぬし)は恐れ慎んで深く頭を下げて、「私は卑しい(やっこ)でございます。(やっこ)相応に気がつかずに誤って造ってしまったことは、誠に恐れおおいことです。それでお許しをいただくための贈り物を献上いたします」と言って、布を白い犬にかけ、鈴をつけて、自分の一族の腰佩(こしはき)という者に犬の縄をとらせて献上した。そこで天皇はその家に火をつけることを止めさせた。

 <以下概略>

 天皇はその犬を結納の品として若日下部王(わかくさかべのみこ)に贈った。すると、若日下部王(わかくさかべのみこ)は、日に背を向けておいでになるのは大変不吉なので、自分の方から参上して仕えますと言った。
 そうして、天皇は朝倉宮(あさくらのみや)に帰る際、あの山の峠に通じる坂の上に立って歌を詠み、その歌を若日下部王(わかくさかべのみこ)の従者に渡して帰した。
 

 この物語では、「五.葛城山」と似た話が挿入されています。天皇と同等の家に住んでいる者がいたという話です。
 ただし、「五.葛城山」と異なっているのは、その相手を服従させたという点で、逆の話になっています。

 ここは「三.赤猪子(あかゐこ)」が挿入される前の物語なので、ここでの天皇はスサノオです。よって、服従させた相手は仲哀天皇でしょう。

 おそらく、これは、スサノオが天皇になった後で、かつ、仲哀天皇を出雲に幽閉する前の話でしょう。仲哀天皇は皇位をはく奪された後も、屋根の上に堅魚木(かつおぎ)のある屋敷にそのまま住んでいたのです。

 そして、それを見たスサノオが「もう、お前は天皇ではないのに、何故、天皇だけに許された堅魚木(かつおぎ)が取り付けられた家に住んでいるのだ」と怒りを示し、仲哀天皇はあわてて詫びを入れたという話です。

 やはり、「三.赤猪子(あかゐこ)」を基準に立場が逆になっていることが分かります。なお、「二.皇后求婚」の前の「一.后妃皇子女」は、天皇の妻や子などの名前の記載がメインですあり、また、特に日本書紀と異なる記述になっているわけでもありませんので、普通に、雄略天皇について記載されているのではないかと思われます。



 以上、浦島太郎の物語に始まり、雄略天皇の物語まで謎解きは広がりました。そして、仲哀天皇のことを拙著の原稿を描いた時よりも、かなり詳しく解明することができました。

 なお、浦島太郎がいなくなったのは雄略天皇22年の7月のことであると日本書紀に記載されていましたが、同年同月に起こったことがあります。

 豊受(とようけの)大神が丹後の(この)神社を出て伊勢神宮へ行ったのも雄略天皇22年の7月なのです。

 延暦23年(804)の「止由気宮(とゆけぐう)儀式帳」には、雄略天皇の夢に伊勢神宮に祀られていた天照大神が出てきて、豊受(とようけの)大神を伊勢神宮に迎えてほしいと告げた話が記載され、また、「倭姫命世紀」にも、天照大神が夢に現れたのはヤマトヒメですが、同様の話が記載されていて、どちらも、豊受(とようけの)大神が丹後をたって伊勢に来たのは雄略天皇22年7月になっています。

 つまり、浦島太郎(=仲哀天皇)が海神の宮(=出雲)に行ったのと、豊受(とようけの)大神(=天照の一人目の巫女。スサノオの妻)が丹後をたって伊勢に行った時は同じなのです。

 これは、おそらく、「仲哀天皇が出雲へと幽閉されるきっかけとなったのが、豊受(とようけの)大神がいなくなって(=死亡して)伊勢神宮に祀られることになった出来事だ」ということを示しているのではないかと思われます。


 それでは最後に、明らかになった仲哀天皇の物語を一部、推測で補いながらまとめておきます。
 初代天皇であるI崇神天皇が死亡し、I崇神天皇と共に国作りを行っていたスサノオは嘆き悲しむ。(※崇神天皇は、大国主神と共に国作りを行った少名毘古那(すくなひこなの)神と同一人物。また、大国主神はスサノオ。詳細は拙著を参照願います)
 I崇神天皇の子のホムチワケ(=M仲哀天皇)が皇位を継ぐ(※I崇神天皇とJ垂仁天皇は同一人物)。M仲哀天皇が我が世の春を謳歌する。
 豊受(とようけの)大神(=アマテラスとして祀られている3人の巫女の一人目。スサノオの妻)が子を産む際に死亡。(※本件については、別途、説明する予定)

 妻の死亡により、スサノオの行動に歯止めが掛からないようになり、天皇と同等の行動を取るようになる。また、アマテラスの巫女はヤマトヒメが引き継ぐ。
 スサノオの行動に危機感を抱いたM仲哀天皇が攻撃を仕掛けるが、敗走。皇位の象徴である草薙(くさなぎの)剣をスサノオに献上して許しを乞う。
 スサノオは草薙(くさなぎの)剣をヤマトヒメに献上し、ヤマトヒメはスサノオに草薙(くさなぎの)剣を与えて天皇に任命、スサノオはK景行天皇になる。結果、M仲哀天皇は皇位をはく奪されたことになる。
 怒ったM仲哀天皇がヤマトヒメを殺そうとするが、スサノオの名を出されて脅され、断念する。

 そのことを聞いたスサノオはM仲哀天皇をヤマトの地に置いておいては危険だと判断し、自らの本拠地である出雲へ幽閉することにする。
 仲哀天皇は出雲で神宮皇后と出会い結婚する。
 スサノオは皇位について3年後、東征中に死亡する。(※スサノオの死亡はヤマトタケルの物語として古事記に記載されている)
 M仲哀天皇は、スサノオが死亡したので自分が皇位に返り咲けるのだろうと考えてヤマトへ帰ろうとする。

 神功皇后は考えの甘さを指摘し、まず兵をあげて出雲を帰伏させ、その上でヤマトへと兵を進めるよう勧める。(※このことは、古事記の仲哀天皇の条において、神功皇后に懸った神の言葉として記載されている)
 M仲哀天皇は神功皇后の言うことを聞かず、一人ヤマトへと帰郷する。この時、神功皇后は子のN応神天皇を宿していた。
 M仲哀天皇がヤマトへ到着すると、皇位は既にスサノオの子のニギハヤヒ(=L成務天皇)が引き継いでおり、本来の天皇家は既に失われて、スサノオ家のものとなっていた。

 しかも、自分のいなかった3年間に、見知った人物は一人残らず粛清、または左遷され、全てスサノオ派の人物にとって代わられていた。

 あまりのことにM仲哀天皇は絶望し、出雲に戻ることなく悲嘆の内に死亡することになる。
 神功皇后が子のN応神天皇を引き連れて兵を起こし、亡き夫に代わって皇位を奪還する。

 以上、仲哀天皇の名は、おそらく、次の理由で付けられたものでしょう。

  ○仲・・・神功皇后との仲睦まじい姿から
  ○哀・・・皇位を奪われ、最後は悲嘆の内に死亡したことから

 おそらく、仲哀天皇は世の企業家等の2代目と同じく、お坊ちゃん的性格の持ち主だったのではないでしょうか。





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