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 5-(54).広隆寺とキリスト教の三位一体


 私が裏内宮であるとしている広隆寺。(※詳細は、記事「5-(18).広隆寺と籠神社の配置(裏内宮と裏外宮)」を参照)

 その広隆寺の創建当時の本尊である弥勒菩薩の手は、記事「5-(23).弥勒菩薩=再臨のキリスト」に記載した通り、キリスト教で三位一体を表わす手の形をしています。

 私は、この弥勒菩薩の真の姿は、「再臨するキリスト」であると考えていますが、当記事では、広隆寺とキリスト教の三位一体について、掘り下げて見て行きたいと思います。


 広隆寺の有名な弥勒菩薩は、国宝第一号に指定されたもので、一般に「宝冠弥勒」と呼ばれています。
 少し分かりにくいかも知れませんが、この弥勒菩薩の右手は薬指と親指をくっつけています。

 そして、このような指の形を取ると、親指と薬指と手の平で三角形ができますが、キリスト教においては、この三角形が「父と子と聖霊」の三位一体の象徴となるのです。
 なお、この象徴は、下図の通り、正教会(ギリシャ正教・東方正教会)で使用されているもののようです。



アヤソフィアの壁画(東ローマ帝国時代)

聖遺物を保管するための容器(ビザンティン帝国時代)

イコン「パントクラトールのキリスト」(国立歴史博物館(モスクワ)・17世紀)
 また、この手の形は、基本的には右手で表わされるもののようですが、下記のように両手で三位一体を表わしているものもあります。

スメラ修道院の壁画(トルコ)

 さて、広隆寺の「宝冠弥勒」ですが、次に、その由来を見てみましょう。

 この「宝冠弥勒」については、制作地を日本とする説と朝鮮半島だとする説があります。

 私はもちろん、日本で制作されたと考えます。「宝冠弥勒」は、表向きは仏教の弥勒菩薩を装って、裏では「再臨のキリスト」を表わす為に日本で制作されたものだと考えているからです。

 また、「宝冠弥勒」は、素材の大部分は赤松ですが、内繰りの背板や背部の衣文などには楠木が使用されています。
 赤松は朝鮮半島にも自生していますが、楠木は自生していません。特に、背板の楠木は、後からの修理等のものではなく、当初から楠木が使用されていたことを示すものであり、それは、朝鮮半島ではなく、日本で造られたことを示すものに他なりません。

 そして、『日本書紀』の推古11年(603)に、以下のような記述があります。
 十一月(しもつき)己巳(つちのとのみ)(さく)皇太子(ひつぎのみこ)(※聖徳太子)、(もろもろ)丈夫(まへつきみたち)(かた)りて(のたま)はく、「我、尊き(ほとけの)(みかた)(たも)てり。誰か()(みかた)を得て(ゐやび)(まつ)らむ」とのたまふ。時に、(はたの)(みやつこ)河勝(かはかつ)進みて(まう)さく、「(やつかれ)(おが)みまつらむ」とまうす。便(すで)に仏像を受く。()りて蜂岡寺(はちのをかでら)(※広隆寺)を造る。
 聖徳太子が持っていた仏像を、秦河勝が賜り、広隆寺を建てて祀ったと記載されています。

 おそらく、この記述の仏像が「宝冠弥勒」。そして、「宝冠弥勒」を造らせたのは聖徳太子でしょう。
 少し時代は下りますが、1499年成立の『広隆寺来由記』には、推古11年に太子から秦河勝が賜った仏像について、「金銅弥勒菩薩像 坐高二尺八寸」と記載されています。

 また、『広隆寺資財校替実録帳』(890年)の「檜皮葺五間金堂壱宇」の条には、
 金色弥勒菩薩壱■ 居高二尺八寸 所謂太子本願御形
※■・・・「身+區」
 とあり、一般に、この、「太子本願御形」の像は「宝冠弥勒」であると考えられています。(※「宝冠弥勒」は、もともとは金色でした)

 つまり、「宝冠弥勒」は、聖徳太子本願の御形なわけであり、おそらくは、「宝冠弥勒」の、特に右手がその御形だと思われます。


 なお、参考までに、広隆寺に仏像が祀られた話として、『日本書紀』には他にも以下の記述があります。
『日本書紀』 推古24年(616)
 秋七月に、新羅、奈末竹世士(なまちくせいし)(まだ)して、(ほとけの)(みかた)(たてまつ)る。
 新羅が仏像を献上したようですが、『扶桑略記』(1094年頃)の推古天皇24年の条には、より詳しく、
 七月、新羅王、金仏像を貢る。高さ二尺、蜂岡寺に置く。此の像光を放つ。時々異有り。
とあり、この仏像も広隆寺(蜂岡寺)祀られたことが分かります。

 また、推古31年には、
『日本書紀』 推古31年(623)
 三十一年の秋七月(ふみづき)に新羅、大使(おほつかい)奈末智洗爾(なまちせんに)(まだ)し、任那(みまな)達率奈末智(だちそちなまち)を遣して、(ならび)来朝(まうけ)り。()りて(ほとけの)(みかた)一具(ひとそなへ)及び(こがねの)(たう)(あはせ)舎利(しゃり)(たてまつ)る。(また)(おほ)きなる観頂(くわんぢゃうの)(はた)一具・小幡(ちひさきはた)十二条(とをあまりふたをち)たてまつる。即ち仏像をば葛野(かどの)(うづまさ)寺(※広隆寺)に()しまさしむ。
とあり、こちらでは、新羅と任那から使者が来日して仏像を献上し、その仏像は広隆寺にあると記載されています。
 朝鮮半島制作説を採る場合は、この仏像が「宝冠弥勒」だとされることが多いようです。


 さて、広隆寺の「宝冠弥勒」ですが、次の朝鮮半島の弥勒菩薩像との類似が良く指摘されます。
弥勒菩薩像(韓国国立中央博物館)
 この像は、韓国国立中央博物館に展示されているもので国宝です。銅造鍍金で、7世紀に百済で造られたと考えられています。

 この弥勒菩薩像は、頭の宝冠といい、ポーズといい、「宝冠弥勒」と瓜二つですが、右手は三位一体の形を取っていません。

 おそらく、広隆寺の「宝冠弥勒」は、この弥勒菩薩像の影響を受けて造られたものでしょうが、完全に似て非なるものだと言えるでしょう。


 なお、広隆寺には、「宝冠弥勒」と同じく、飛鳥時代のもので、かつ、国宝に指定されている弥勒菩薩像があります。

 こちらの像は、「宝冠弥勒」に対して、「宝髻(ほうけい)弥勒」と言われ、その悲しげな表情から「泣き弥勒」とも呼ばれるもので、こちらも国宝です。
 素材は楠木製で、上述の通り、朝鮮半島には楠木は自生しないことから、一般的に日本製であると考えられています。霊宝殿に安置され、7世紀半ばの仏像です。
 この「泣き弥勒」の手に注目すると、「宝冠弥勒」とは違い、「親指と人差し指と中指を立てる」という手の形をしています。

 そして、この手の形も、以下の通り、キリスト教では三位一体を象徴するものです。

「栄光のキリスト」(1123頃)

ウェイデン「救世主キリスト」(1452頃)

イコン「カザンの聖母」(ヤロスラヴリ歴史建築博物館・17世紀半ば)

 また、同じように「親指と人差し指と中指を立てる」という手の形をしている弥勒菩薩に、次のものがあります。

銅造弥勒菩薩像(野中寺)
 これは、大阪府羽曳野市の野中寺(やちゅうじ)の弥勒菩薩像です。

 先の「泣き弥勒」とは、右手の向きは異なりますが、「親指と人差し指と中指を立てる」という点では一致しており、また、キリスト教の三位一体の手とは、こちらの方が近いと言えるでしょう。

 なお、野中寺(やちゅうじ)は、伝承では聖徳太子建立48寺院の一つで、太子の命を受けた蘇我馬子が開基したとされており、やはり、聖徳太子が関わっているとされる寺です。

 また、この弥勒菩薩像の台座の部分には刻銘があり、そこから、この像が、丙寅年の四月に「中宮天皇」が病気になったとき栢寺(かやでら)の僧たちが平癒を請願して奉った弥勒菩薩像であることが分かります。

 丙寅年は西暦666年に当たり、太子や馬子が生きていた時代よりも少し後。また、「中宮天皇」については、「天智説」「斉明説」「間人皇后説」などの諸説がありますが、定説はありません。


 ちなみに、他の弥勒菩薩像を調べてみると、「親指と人差し指と中指を立てる」という形は、弥勒菩薩像としてそれほど特殊でもないようです。

 例えば、以下のものは、朝鮮半島のものです。
弥勒菩薩像(韓国国立中央博物館)
 これは、6世紀後半のもので銅造鍍金。制作地については、高句麗、百済、新羅と諸説あります。

 こちらの弥勒菩薩も、「親指と人差し指と中指を立てる」という手の形をしていますが、あくまで、思惟を表わす表現として「手が頬に当てられる」という形態がとられています。
 一方、「泣き弥勒」や野中寺(やちゅうじ)のものは、むしろ、「手の形を見せるように造られている」ように思えます。

 また、次のものは中国のものです。
鉄造弥勒如来倚像(西安市文物保護考古所)
 これは、唐時代・8世紀のものなので、「宝冠弥勒」や「泣き弥勒」よりは後の時代のものです。
 この像は、唐の長安城の延康坊東遇(陝西省西安市)で発見され、また、その場所には、隋代には静法寺(浄法寺)があったことから、その寺関連の仏像だと考えられているようです。

 また、仏像としては珍しく鉄製で、頭光(ずこう)と右手は銅製。銅の部分は、後から補修されたものだと考えられています。

 この弥勒如来は、ご覧の通り、「親指と人差し指と中指を立てる」という手の形をし、その形は、上であげたキリスト教のものと、より近いと言えるでしょう。

 そして、上述の通り、この像は仏教のものだと考えられていますが、西安市と言えば、景教碑があったところです。

 西安市は、唐代には首都で長安と呼ばれており、そこには、キリスト教の一派であるネストリウス派が伝えられ、景教と呼ばれていました。
 そして、唐代には、景教が流行したようで、781年にはそれを記念して「大秦景教流行中国碑」が建てられています。その後、武宗(在位840-846)の時代に弾圧されて、この景教碑は埋められ、明代に発見されることになります。

 上記の弥勒如来像は、発掘された時の状況が分からないのでなんとも言えないところですが、もしかすると、本当は景教のもので、景教の弾圧時に埋められたものの一つかも知れません。

 ちなみに、景教のキリスト像としては以下のようなものもあります。
 キリスト像を造りたくても、場所は中国で、依頼するとしたら仏師しかいません。結果として、仏像のようなキリスト像が出来上がることになったのでしょう。


 そして、広隆寺にはもう一体、弥勒菩薩像があります。

弥勒仏坐像
 この弥勒は平安時代のもので重要文化財。手は、中指と親指をくっつけています。この手の形は仏像としては、それほどレアでもなく、例えば、唐招提寺の廬舎那仏坐像(8世紀末)や醍醐寺の薬師三尊像(913年)等も同じような手の形をしています。

廬舎那仏坐像(唐招提寺)
 ただし、景教関連で以下のものがあります。

景教僧人物画(大英博物館)
 これは、敦煌の第17石窟で発見されたもので、右手の中指と親指をくっつけて三角形を作り、三位一体を表わしています。
 もしかすると、キリストが三位一体を表わす時は「薬指と親指」、使徒の時は「中指と親指」という決まりがあったのかも知れません。


 そして、さらに、広隆寺の下記、阿弥陀如来坐像。
阿弥陀如来坐像 ( 講堂本尊・840年頃)
 これも国宝で、講堂の本尊ですが、両手で「親指と薬指を付けて三角形を作る」という手の形をしています。

 そして、指の先ではなく、親指の腹につける形は、スメラ修道院の壁画に近い形です。

スメラ僧院の壁画(トルコ)


 以上、「宝冠弥勒」やその他の弥勒菩薩像、阿弥陀如来像について、個々に見れば「三位一体を表わしたものである」とは断定しかねるところがあります。仏像の印の形などバリエーションが様々で、偶然、一致するものがあってもおかしくないからです。

 しかし、広隆寺全体として勘案すれば、偶然の一致として片づけるには出来過ぎであり、
「キリスト教の三位一体を象徴する手の形を知った上で、あえてそのように作った」と考えるのが妥当ではないでしょうか。





◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『仏教の中のユダヤ文化』
久保有政 学研
『秦氏の研究』

大和岩雄 大和書房
Wikipedia(弥勒菩薩思惟半跏像)    
Wikipedia(広隆寺)
Wikipedia(野中寺)






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