イエスの最後の言葉

 「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(マタイの福音書27章46節)

 イエスが無実の罪で十字架にかけられ、息を引き取る際の最後の言葉です。


 この言葉に関しては、信仰を守り通すことを人々に説き、自らもその通り行動してきたイエスらしからぬ言葉として疑問が投げかけられ、イエスの人間としての弱さが出たものだと指摘されたり、また、キリスト教を揶揄する人たちから、「イエスは最後に信仰を捨てた」と言われたりすることもあります。

 しかし、この言葉は、旧約聖書の『詩篇』を前提としたものであり、それを知らなければ理解できないものです。「イエスが『神から見捨てられた』と考えて、このような言葉を発した」という解釈は全くの誤りなのです。


 該当の『詩篇』は、次のように、まさにこの言葉から始まります。

 「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」(詩篇22章2節)
《参考》
○『詩篇』は、紀元前1世紀(ダビデ王朝)から、前2世紀頃までの約800年の間に歌われてきた神への賛美の詩や祈りの文言の中から150を厳選したもので、賛美・感謝・嘆きの3種類に分類される。
○詩篇22章の第1節は「指揮者に。『曙光の雌鹿』で。ダビデの歌。」で、該当章の題名のようなもの。
旧約聖書翻訳委員会訳の『旧約聖書W 諸書』(岩波書店)では「わが神、わが神、なにゆえ、私をお棄てになったのか」という訳になっている。
 この詩篇22章は、自分を見捨てた神を責める言葉から始まり、苦難の内にいる者が神に救いを求め、最後は神への賛美で終わります。

 つまり、イエスは、最後の言葉で詩篇22章を示唆することにより、「『神に見捨てられた』と感じ絶望するような時にも、神を信じ続け信仰を捨てるな」というメッセージを伝えているのです。

 なお、詩篇22章を示唆するものは、この、イエスの最後の言葉だけではありません。イエスが十字架にかけられた際の出来事が次のように詩篇22章に対応しています。

詩篇22章 マタイの福音書27章
しかし私は、虫けらで、人ではない。
人の笑い草で、民の軽蔑の的。
私を見る者はみな私をあざ笑い、
唇をとがらし、頭を振るー(7-8節)

(注)「唇をとがらす」、「頭を振る」は共に侮蔑の身振り
それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。

「ユダヤ人の王様。ばんざい。」

また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。(28-29節。※他にも同様の侮蔑の記述あり)

道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって(39章)
「ヤハウェにまかせろ、彼を逃れさせ彼を救い出すだろう、お気に入りなんだから」と。(9節) 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(43節)
彼らはわが着物を自分たちで分け、わが衣の上に籤(くじ)を落とす。(19節) こうして、イエスを十字架につけてから、彼らは籤(くじ)を引いて、イエスの着物を分け、(35節)

 つまり、イエスの磔刑のシーン全体が詩篇22章で予言されており、イエスの最後の言葉は、それが成就したことを示すものとも言えるのです。


 ちなみに、イエスの最後の言葉は、4つある福音書の全てで一致しているわけではありません。
 他の『詩篇』がらみの記述も含めて比較してみます。
マルコの福音書15章 マタイの福音書27章 ルカの福音書23章 ヨハネの福音書19章
民からの嘲笑 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、それから、「ユダヤ人の王様。ばんざい。」と挨拶をし始めた。

また、葦の棒でイエスの頭を叩いたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。(17-19節)
それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。

「ユダヤ人の王様。ばんざい。」

また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭を叩いた。(28-29節)
他の福音書と同様の記述はないが、他のイエスを嘲笑する言葉、行動は見られる また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。

彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王様。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。(2-3節)
頭を振る 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。(29節) 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって(39章) 該当なし 該当なし
お気に入り 該当なし 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」(43節) 該当なし 該当なし
くじ そして、誰が何を取るかを籤(くじ)で決めた上で、イエスの着物を分けた。(24節) こうして、イエスを十字架につけてから、彼らは籤(くじ)を引いて、イエスの着物を分け、(35節) 彼らは、籤(くじ)を引いて、イエスの着物を分けた。(34節) そこで彼らは互いに言った。「それは裂かないで、誰の物になるか、籤(くじ)を引こう。」それは、「彼らは私の着物を分け合い、私の下着の為に籤(くじ)を引いた。」(注)という聖書が成就する為であった。(24節)

(注)日本語訳だと微妙に異なるが、『詩篇』22章19節のこと
最後の言葉 そして、3時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」という意味である。(34節) 3時頃、イエスは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか。」という意味である。(46節) イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。(46節) この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就する為に、「私は渇く。」と言われた。

そこには酸いぶどう酒のいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。

イエスは酸いぶどう酒を受けられると、「成し遂げられた。」と言われた。(29-30節)
 イエスの最後の言葉は、『マルコの福音書』と『マタイの福音書』のみ一致し、それ以外は異なっています。

 『マルコの福音書』は最も古く、『マタイの福音書』や『ルカの福音書』の作成者が第一の重要資料として使用したと言われています。
 ちなみに、各福音書の作成時に資料として使用したとされているものは以下の通りです。
○『マタイの福音書』・・・マルコの福音書、Q文書(注)、マタイ固有の特殊資料
○『ルカの福音書』・・・マルコの福音書、Q文書、ルカ固有の特殊資料
○『ヨハネの福音書』・・・作品全体としては他の福音書のどれも資料として見ていないという蓋然性が高く、少なくともどれにも依存していない。
(注)Q文書・・・広範なイエスの語録文書。ドイツ語のQuelle(資料)の頭文字をとって「Q文書」もしくは「Q資料」と言われる。
 さて、詩篇22章と各福音書の内容ですが、まず、『マタイの福音書』は、微妙な表現の違いは兎も角、『マルコの福音書』と比べ、より、詩篇22章との関連を強める為に、「神のお気に入り」の文章が追加されていることが分かります。

 次に、『ルカの福音書』の「父よ。わが霊を御手にゆだねます」は、詩篇31章6節の「あなたの手に私はわが霊をゆだねます」に対応しています。詩篇31章は、22章と同じく苦難や不安の内にいる者が神へ救いを求める内容となっており、最後は神への賛美で終わります。

 なお、『ルカの福音書』は、上述のように『マルコの福音書』を見て作成されているはずですが、『マルコの福音書』に記載されている民からの嘲笑の言動、そして、「頭を振る」シーンも採用せずに、また、最後の言葉には詩篇31章のものを用いて、詩篇22章との関連を薄めています。
 最後の言葉に詩篇22章のものを採用しなかったのは、たとえ、詩篇22章を指し示すための言葉であっても、その言葉自体が神をとがめるもので印象が悪いと考えたからかも知れません。

 最後に、『ヨハネの福音書』の「私は渇く」は、一般に次の詩篇との関連が指摘されています。
詩篇22章16節「我が口蓋は土器のように渇き、我が舌は顎に張り付き、あなたは私を死の塵の中に置いた。」
詩篇63章2節「我が魂はあなたに
渇き、我が身はあなたにこがれます、渇いて疲れた地で、水も無く。」
詩篇69章22節「彼らは我が食事に毒草を入れ、我が
渇きを飲ませました。」
 詩篇63章は、神に恋焦がれる内容、また、詩篇69章は、侮辱と恥辱を受け、苦難の内にいる者が神に救いを求め、敵に神の裁きが下されることを望む内容になっています。
 イエスが置かれた状況に、より近いのは詩篇22章と69章ですが、「酸いぶどう酒」が「酢」と対応していると考えると、「渇き」と「酢」が記載されている69章を意識している可能性が高く(注)、また、69章の「彼らは我が食事に毒草を入れ」と殺害が暗示されている記述は、死に直面したイエスの状況に合っていると言えます。
 なお、「酸いぶどう酒」をイエスに飲ませようとするシーンは他の三つの福音書にも登場しますが、イエスの「私は渇く」という言葉はありません。
(注)通常、「酸いぶどう酒」と訳されることが多いですが、ぶどう酢を水で薄めたものらしく、新約聖書翻訳委員会の『新約聖書』(岩波書店)の訳では単に「酢」となっています。
 そして、最後の言葉の「成し遂げられた」はまさに、詩篇に記載された予言が成就したことを示す言葉となっています。
<参考>
 『聖書 101の謎』(小平正寿・新人物往来社)では、「成し遂げられた」を詩篇22章の一番最後の文言と一致するとしており、その文言を次の通りだと記載しています。

「私の魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、
成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」

 しかし、新約聖書翻訳委員会の『新約聖書』(岩波書店)の該当箇所の訳を見てみると、以下の通りです。

「しかし、彼は生かさなかった(※七十人訳では「そして我が魂は彼に生きる」)。彼に仕える裔(すえ)は我が主からこの代(よ)に述べられよ。彼らは来て、彼の正義を告げよ、生まれいずる民に。
彼がこれを行ったのだから(詩篇22章30-32節)

 新約聖書翻訳委員会のものは、ヘブライ語の原典に忠実過ぎて、何を言っているのかよく分かりませんが、『聖書 101の謎』の「成し遂げてくださった」に対応する箇所が、「彼がこれを行ったのだから」でしょう。

 この訳の比較を見る限り、『ヨハネの福音書』の「成し遂げられた」が詩篇22章に対応しているとするのは無理があると思われます。

 (※ただし、『ヨハネの福音書』の作成者が読んだのは七十人訳(ギリシャ語)の詩篇だと思われますので、ギリシャ語版で新約・旧約の双方を比較してみないと正確なところは分かりません。)


 以上、イエスの最後の言葉に着目して、4つの福音書を比べてみました。

 福音書毎にその作成者の思い・考えが反映しているようで、最後の言葉が一致しているわけではありませんが、全てが『詩篇』を予言とみなし、イエスの磔刑のシーンにおいて、その予言が成就したことに主眼を置いて記載されていることは間違いないでしょう。



◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『新約聖書』
新約聖書翻訳委員会訳 岩波書店
『聖書 101の謎』

小平 正寿
新人物往来社




TOPページ