質疑応答

 回答01 質問者:H・Yさん 受付日:2009.06.08 回答日:2009.06.15

1.神武天皇と応神天皇の同一人物説

小生は西都原古墳群や鹿児島県内の宮内庁管理の3つの天皇稜を見学したこともあるので、特に原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」を信用しており、神武天皇と応神天皇の同一人物説には同意しかねない。

なぜならば神武天皇の諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、エフライム族の北朝イスラエル王家再興を意味している説があり、神武天皇と応神天皇が同一人物とは言えないと思います。

ところで「古事記に隠された聖書の暗号」に「古事記の中つ巻は鏡合わせ」の項目がなかったのが意外でしたが、「神武天皇と応神天皇が同一人物であることが分かると古事記の中つ巻が実は鏡合わせになっている」の解説は、飛鳥昭雄氏得意の「カッパラ」の鏡合わせですね?



<回答>

 原田常治氏の説については、他の方の書籍にて紹介されている文章に触れたことがある程度なので、なんとも回答できません。

 神武天皇の諡号が「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」を意味するという説については、私は、下記理由により参考情報以上の価値を見出しておりませんので、この説をもって自説を変えるつもりはありません。 
○単なるダジャレや言葉遊びの域を超えた主張であるか否か分からない。

○神武天皇だけでなく、他の天皇の和風諡号も同様にヘブライ語で解釈できなければ説得力に欠ける。

○梵語の音を重視し、そこに漢字を当てはめた仏典とは違い、古事記は、元々の音よりも日本語での言葉の意味を重視したと私は考えている。(そして、その結果が言葉の意味を解釈することによって、古事記の解き明かしをするという拙著の主張になった)
 中つ巻の鏡合せは、ご指摘の通り、飛鳥昭雄氏の著書に発想のヒントを得たものです。


2.古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説

一般的に古事記は、奈良時代の天武天皇の命で稗田阿礼に誦習させた帝紀(天皇の系譜、年代記)と旧辞(伝承や説話)を和銅四(711)年、元明天皇の命を受けた太安麻侶が撰録したものとされ、上・中・下の三巻からなる。

上巻は天地創造から鵜草葺不合尊までの神代の神話で、「天照大神の岩戸隠れ」と、「須佐之男命の八俣遠呂智退治」の物語である。中・下巻は人代の紀伝で、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇から推古天皇までの、それぞれ系譜、出来事などを記し、和銅五(712)年に完成したとされている。 しかし、伊勢神宮文庫に残されている太朝臣安麻侶と稗田阿禮が書いた署名には和銅元年十月記と記されている。

古事記の編纂は日本書紀よりも先行し、和銅元年に完成して提出されたものとされています。藤原不比等は持統女帝と組んで史実を改竄した記紀を編纂したとみられるからである。 ともあれその監修は、当時の政権実力者・藤原不比等だったことは間違いない。藤原不比等は百済の王子・翹岐(日本名:中大兄)ともに渡来して蘇我入鹿を殺害した智積(日本名:鎌足)の二男だった。。。。。。。

ところで古事記の完成は和銅五(712)年ですが、蘇我馬子(聖徳太子)は奈良時代以前の飛鳥時代の人物で時代が合致せず、古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説は無理があるのではないですか? 


<回答>

 本件は、古事記の序文をどこまで信用するかという立場の違いに基づく見解の相違であると思います。

 もし、古事記の序文をそのまま信じる立場であれば、古事記編纂の目的は、正しい歴史を後世に伝える為であり、藤原不比等が史実を改竄したという事実はありえません。

 H・Yさんと私とでは、「古事記の前文の内容をそのまま信じるわけではない」という点では一致していると思いますが、私の方は、古事記の作成者(編集者)や作成年の方も信じていないので、その点では相違しています。(※もし、H・Yさんが、古事記に真の作成者は藤原不比等であると考えているのなら、相違点は作成年だけになります)

 また、そもそも、完成年以前の問題として、古事記には、作成者は太朝臣安麻侶と稗田阿禮だと明記されているのですから、その内容を信じるのであれば、私の「古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説」は論外でしょう。

 この説については、拙著にも記載した通り、私の中でそれほど固まっていないところです。ただ、序文に記載された完成年については、「あくまで、古事記として世に出す形が整った年を示しているのではないか」と考えています。


3.旧約聖書・新約聖書の読解

石川様は古事記の著者は蘇我馬子(聖徳太子)説ですが、旧約聖書と新約聖書はヘブル語またはアラム語、古代ギリシア語などで書かれていたはずですが、蘇我馬子(聖徳太子)はそれら原書を理解して都合よく創造した古代天皇に当てはめたのでしょうか?

または秦河勝などの秦氏が日本渡来後に当時の日本語(万葉ことば?)に翻訳したのを蘇我馬子(聖徳太子)が都合よく創造した古代天皇に当てはめたのでしょうか?


<回答>

 想像でしか回答できない事項ですので、想像で回答します。

 日本という国を創ったのがイスラエルの失われた十部族であるのなら、ヘブル語の旧約聖書を持って渡来し、代々、ヘブル語の読み書きは引き継がれてきたのではないかと思います。よって、旧約聖書は原書を読むことができたでしょう。

 また、新約聖書については、日本にもたらされたものがヘブル語のものなら読めたでしょうし、アラム語やギリシア語のものであれば、秦氏等を介して理解したのでしょう。


4.古事記に暗号を隠した理由・日本皇室はユダ族かエフライム族か

そもそも蘇我馬子(聖徳太子)はなぜ古事記に聖書の暗号を隠したのでしょうか?

また、日本天皇家は古代イスラエルの血を継ぐ王家であることを記録するためとしたら、日本天皇家は北朝イスラエル王家でしょうか?それとも南朝ユダ王家でしょうか?それとも双方を統合した古代イスラエル王家再興でしょうか?

ところで川守田英二氏によれば日本皇室は南朝ユダ族のダビデ王の永遠の王座を踏襲した世界最古の王であるのに対し、ヨセフ・アイデルバーグ氏によれば初代神武天皇の諡号「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、エフライム族の北朝イスラエル王家再興であるとしています。

また、久保有政著「日本の中のユダヤ文化」によれば、下記理由により日本天皇家はエフライム族の王家と主張していますが、石川様のご見解はいかがですか?
1.日本の神話は古代イスラエルのエフライム族の系図に似ている
2.中央アジアのキルギス人の伝説「マナス叙事詩」
3.神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は「サマリアの王、ヤハウエ神のヘブライ民族の高尚な創設者」の意味で、エフライム族の北朝イスラエル王家再興を意味している
4.日本天皇家の王冠のユニコーン(一角獣)はエフライム族が属するヨセフ族の紋章


<回答>

 これだけの大掛かりなことをするくらいですから、それは個人の判断ではなく、そのような神示があったからでしょう。そして、隠した理由は、然るべき時に明らかにされる為です。なお、これも単なる想像ですので、これくらいで留めたいと思います。


 日本皇室がユダ族の末裔なのか、エフライム族の末裔なのかは、私の中でまだ答えが出せていないところです。

 日本人がイスラエルの失われた十部族の末裔ならば、素直に考えるとエフライム族の王家の血を引き継いでいるということになります。

 しかし、古事記で、「初国知らしし」と称される崇神天皇をダビデに対応させているところを見ると、それは、天皇家がダビデの血を受け継いでいることを示す為と捉えることもでき、また、そうであるならば、拙著に記載した通り、ヤハウェがダビデに約束した永遠の王家は日本の地で果たされていたことになります。

 久保有政氏の主張については、
1・・・拙著に記載した通り、エフライム族の系図に似ているのは、旧約聖書の記載通りに対応させた結果で、実際には、天皇はダビデ、もしくはソロモンまで対応しており、少なくともエフライム族を特別に意識した構成にはなっていません。

2・・・キルギス族の伝説である「弟が東に行って日本人になった」という話は興味深いですが、はるか昔から「日本人」という言葉が使われていたと思えないので、より原型に近い形ではどのような表現がなされていたのか確認したいところです。
 ただし、この話も、エフライム族が日本に来たことを裏付けるだけの話で、日本皇室=エフライム族とする決定打とは言い難いと思います。

3・・・<1.神武天皇と応神天皇の同一人物説>を参照願います。

4・・・該当の王冠については、私は、ユニコーンの後ろの山はシナイ山を表し、ユニコーンは角を持った動物ということで、小羊たるキリストを表現しているのではないかと考えています。(※詳細については、別途、HPにアップする予定)


5.古事記の矛盾

例えば、夜麻登登母母曽毘売命は第7代考霊天皇の娘で、大物主神(須佐之男命)と夫婦となったとありますが、大物主神(須佐之男命)は初代神武天皇前に活躍した人物であり時代が合致しないなどの古事記には時代考証的に矛盾することが多く、これが信用されない理由のひとつと思いますが、神話だからしかたがないのですか?


<回答>

 古事記上、大物主神は人ではなく神なのですから(あくまで表向きには)、初代神武天皇以前に登場した神が、七代孝霊天皇の娘と夫婦になったとしても、物語上は矛盾しないでしょう。

 また、大物主神が須佐之男命と同一人物であるとするのは、古事記の構造を解析する等して導き出した私の見解であり、それは、古事記の表向きの態度とは異なります。


 なお、古事記に対しては、物語の展開がうまく噛み合わない等の矛盾が指摘されることがありますが、それは、裏に真実を歴史を隠しているのですから、ある程度は仕方がないと言ったところであると思います。


6.イスラエルの民の渡来ルート

この古事記によればイスラエルから日本への渡来は海ルートですが、日本天皇家は江上波夫氏などの騎馬民族征服王朝説(扶余族(エフライム族後裔)出身説)があり、この古事記に天山山脈北及び南の草原ルートによる日本渡来の記述がないのはなぜでしょうか?


<回答>

 本件についても、私はまだ、明確な答えを出せていない状況です。

 「イスラエルの民は一度に来たのではなく、何度かに分かれて渡来した」と考えていますが、海ルートが何度目の渡来分なのかは現在、解明できていません。ただ、皇室に関連する集団が渡来した際のルートである可能性が高いとは考えています。また、それとは別に陸のシルクロードを通って来た民もいたことでしょう。

 なお、騎馬民族征服王朝説は、以前、脚光を浴びた説ではありますが、実際には騎馬軍団の襲来を裏付けるものは存在しない(せいぜい、3、4世紀の古墳から、それ以前は全く見られなかった馬具が発見されている程度)などの理由で、今では考古学者のほとんどがこの説に批判的です。そして、私も同じく否定的です。

 ただし、私は、扶余族が作った百済が日本建国に何らかの影響を与えた可能性は否定しません。

 百済の建国神話では、海辺に王都を開いた兄の沸流(プル)は失敗して自殺し、山辺に王都を開いた弟の温祚(オンジョ)が成功して百済の始祖になったとされており、この話と海幸彦・山幸彦の話との関連が指摘されていて興味のあるところです。


7.旧約・新約聖書の神器のありか

応神天皇の時に中央アジアから弓月君に率いられた秦氏が渡来していますが、この秦氏は原始キリスト教徒エルサレム教団の南朝ユダ族で、この渡来時に旧約聖書と新約聖書さらにイエス・キリスト関係の罪状板、聖十字架、モーセの旗竿「ネプシュタン」、契約の聖櫃などを持ち込んだのではないかと思いますが、石川様のご見解はいかがですか?古事記にその証拠がありますか?


<回答>

 「これらのものが日本にある可能性が高いのでは」と思っていますが、現在、特に、その根拠となるものは見つけられてません。


8.古文書、及び、神社祭神の改竄、末殺行為

持統天皇5(691)年8月13日条に、古代から由緒ある神社の古文書や豪族の系図を没収し、抹殺してしまった。
○石上神宮(現在の天理市布留町)の古文書(須佐之男尊、大歳(饒速日)尊一族、その末裔である物部氏=出雲系)
○饒速日大王の陵墓で、三輪山(桜井市三輪)を御神体として祀る大神神社(斎主・三輪氏)の古文書。
○以下、豪族十六氏の系図 ・春日氏・大伴氏・佐伯氏・雀部氏・阿部氏・膳部氏・穂積氏・采女氏・羽田氏・巨勢氏・石川氏・平群氏・木(紀)角氏・阿積氏・藤原氏・上毛野氏の系図である。

また、元明天皇は即位した和銅元(708)年正月、天下に大赦を出した。ただし、「山沢に亡命して禁書を隠し持っている者は、百日以内に自首せよ。さもなくば恩赦しない」という詔勅を出している。念には念を入れて、古代王族や豪族の系譜を抹殺しようと図っている。

さらに、全国の神社の出雲系祭神名を変更しているが、このような政策によって改竄、創作された可能性の高い古事記や日本書記の解析は意味がありますか?

この点から、小生は原田常治著「古代日本正史」「上代日本正史」を信用していますが。。。


<回答>

 古事記という真の歴史が封印された書物を作ったところで、それだけでは片手落ちで、各神社や豪族たちが持っている古文書等も末梢・改ざんしなければ意味がありません。それらが存在すれば、すぐに真実が分かってしまうからです。

 私は、持統天皇や元明天皇の時代に行われた上記行為は、「日本という国からその出自を隠す」という大事業の一環として行われたことではないかと思っています。

 よって、これらの改ざん行為等は、古事記制作と同一の理念に従って行われたことであり、古事記の解析に意味がないとは考えていません。 


9.天皇の漢風諡号と和風諡号

古事記が明示していない場合、各天皇の漢風諡号と和風諡号の双方に旧約聖書の物語が隠されているとのことですが、一般的に各天皇の漢風諡号は奈良時代の淡海三船(天武天皇の孫722〜785年)が命名したとされていますが、なぜ彼にこの権限があったのでしょうか? 

そして彼は古事記の聖書秘密を知って各天皇の漢風諡号を命名したのでしょうか?

また、各天皇の和風諡号は誰が命名したのでしょうか?


<回答>

 一つ前の回答にも記載した通り、古事記の制作理念はこの時代にも伝わっていたと考えています。
 根拠脆弱ながら、現在の私の考えを整理して記載すれば次の通りです。
@聖徳太子の時代に、「日本国からその出自を隠せ」という神示が降りる

A基本計画を聖徳太子が立案。古事記の原型となるものを作り上げる

B天武天皇、持統天皇等の時代に、計画が実行に移される(※各豪族の反発は必至であり、ある程度、天皇の権威・権力が高まった時でないと実行できなかった)

C神社の祭神、豪族等が個別に持つ古文書等を、古事記の内容に合わせて抹殺、又は、変更
 よって、私は、淡海三船も古事記の制作理念を知っており、それに基づいて命名したのだと思っています。
 また、和風諡号は聖徳太子は命名したのだろうと考えています。


 淡海三船が漢風諡号を決定したのは、外典・漢詩に優れていたらしいですし、その才能を買われたのではないでしょうか。


10.神社の位置の設定方法

「月読(つくよみの)宮―加佐登(かさと)神社―気比(けひ)神宮」は、加佐登(かさと)神社が東側に3度ずれ、一方、「伊雑(いざわの)宮―内宮(ないくう)―外宮(げくう)」は、内宮(ないくう)西側に3度ずれており、 おそらく、「月読(つくよみの)宮―加佐登(かさと)神社―気比(けひ)神宮」は男神(陰陽の陽)のラインで、「伊雑(いざわの)宮―内宮(ないくう)―外宮(げくう)」は女神(陰陽の陰)のラインであり、陰と陽では鏡合せのように逆にしなければならないという思想はカバラ思想によるものと思われますが、そもそも伊勢神宮は倭姫命が天照大御神の御杖代として大和国から、伊賀、近江、美濃、尾張等の元伊勢の土地を放浪した後に最終地として伊勢・五十鈴川域の当地に創建し、奈良時代初期に天武天皇(高句麗・大莫離支の蓋蘇文?)が整備したそうですが、たとえ道教の占術と忍術、更にカッバラに優れた天武天皇とはいえ、現代の詳細な地図を持っているはずもなく、どのようにして聖十字架となる外宮、内宮、伊雑宮、気比神宮などの神社位置を設定したのでしょうか?


<回答>

 本件について私は明確に説明できる術を持っていませんが、聖十字架を単なる偶然と片付けるにしては出来過ぎですし、結果論から言えば、当時、正確に位置を測定できる技術を持っていたとしか言いようがありません。

 なお、そもそも、自分が位置する座標は、星の位置さえ正確に観測できれば把握することが可能です。

 古代ギリシアでは、紀元前6世紀にはピタゴラスが地動説を唱え、前3世紀には、アリスタルコスが太陽中心説を、エラトステネスが地球の大きさを測定していました。そして、前2世紀には、ヒッパルコスが緯度と経度を考案し、黄道傾斜を定めていました。

 これらの事実を勘案するに、聖十字架になるように神社を配置したという事実も、それほど不思議なことではないと思われます。


11.籠神社

飛鳥昭雄氏の「失われたキリストの聖十字架 心御柱の謎」によれば、籠神社は外宮、伊雑宮は内宮の元伊勢として対応し、両宮は阿吽の関係にあるとしていますが、石川説による籠神社の位置付けはどうなりますか?


<回答>

 籠神社には何かあるだろうと思っていますが、現在、特に何も見いだせてはいません。

 ちなみに、伊雑宮を起点とした各神社の方位角は次のようになります。

   伊雑宮 → 内宮   : 317度
   伊雑宮 → 外宮   : 320度
   伊雑宮 → 籠神社  : 312度


12.前方後円墳とマナの壺

畿内から吉備、筑紫などの各地の墓制が取り入れられての定型化が巻向の箸墓で完成したのが前方後円墳としていますが、飛鳥昭雄氏などの著書によれば、前方後円墳はイスラエルの三種の神器のひとつのマナの壷がモデルと主張していますが、石川様のご見解はいかがですか?


<回答>

 前方後円墳の形状については、学説では主に次の二つに分かれます。
1.機能論的、かつ、自然発生的に発生したとするもので、弥生時代の方(円)形周溝墓の周溝の一辺中央が切れて、埋葬儀礼の時の通路となり、儀式が整備されるに従って通路が徐々に発達し、ついには前方後円墳や前方後方墳になったとする説。


2.外的な要因や宗教的な理由から誕生したとするもので、これは次の二説に分かれる。

 @.円と方の合体説で、円は天を、方は地を表すから、陰陽融合という宇宙観を表現している。
 A.壺の形を写し取ったとする説で、壺や瓢(ひさご)は母胎を表し、再生、豊穣のための容器とするもの。中国の神仙思想では海東に壺の形をした蓬莱山があって、仙人が住み不老長寿の妙薬が生えると信じられており、不老不死の神仙界を求めて壺形の墳丘を造ったとする。

(参考: 「日本の歴史02 王権誕生」 寺沢薫・講談社)

 私は現状、明確な答えを持っていませんが、今のところ一番支持しているのは、2−@の説です。さらに付け足せば、そこに人を葬ることで、天・地・人という世界を形成する要素としての型が完成することになります。


 飛鳥昭雄氏の説は2−Aの説の亜流ということになりますが、私はあまり支持していません。

 マナの壺は神から与えられた食べ物を入れた壺であり、そこに人を葬るということに、どのような意味があるのか疑問です。

 また、仮にイスラエルの民であることを暗示する為にマナの壺の形にしたとしても、わざわざ墓にその形を使用することの必然性があるとは思えません。さらに、一口に壺形と言っても様々な形の前方後円墳があり、日本に持ち込まれたマナの壺をかたどったものであるならば統一性に欠けると言えます。


13.イスラエルの三種の神器・石上神宮の御神体の刀

飛鳥昭雄氏の著書によれば、イスラエル三種の神器の内、「マナの壷」は「八坂瓊勾玉(やさかにの まがたま)」として天皇が所持しており、現在皇居内部の「賢所(かしこどころ)」に安置されている。
「アロンの杖」は「草薙の剣」として熱田神宮の御神体として安置されている。
「十戒の石板」は「八咫の鏡」として伊勢神宮の内宮に祀られている。
「契約の箱」は明治天皇によって封印され伊勢神宮の内宮にある。

としているが、石川様のご見解はいかがですか?


ところで、石上神宮の主祭神は布留御魂大神(ニギハヤヒ尊)・布都斯御魂大神(スサノオ尊)・布都御魂大神(スサノオの父)で、神話で有名な、スサノオ尊がヤマタノオロチ(豪族オロチ)を斬った十握剣(草薙の剣)が国宝として祀られている。古くから同神宮の拝殿後方に磐坐が設けられ、神宝が埋斎されていると云い伝えられてきたが、明治七(1874)年に神官が朝廷の許可を得て発掘が行われ、伝え通り布都御魂剣をはじめ天璽十種瑞宝の数々の宝物が発見されたという。

同神宮の説明書では、「神剣は環頭内反の鉄刀であることから、中国は漢時代の素環頭鉄刀が招来されたものと考えられる」という。神武天皇は橿原宮で即位したときにこの神器を継承し、宮中に祀っていたものを崇神天皇が石上神宮に奉納したといわれているために、熱田神宮の御神体の「草薙の剣」はスサノオ尊由来の「草薙の剣」ではないと思いますが、石川様のご見解はいかがですか?

ところで、道教の占術と忍術、更にカッバラに優れた天武天皇が秦氏のアドバイスにより伊勢神宮を整備(乗っ取り)したときに、聖十字架の神社配置と同時にイスラエル三種の神器などを祭ったのではないかと思っていますが。。。。


<回答>

 イスラエルの三種の神器については、「日本にあるかも知れないし、ないかも知れない」程度の認識です。現在、それ以上の見解は持っていません。


 布留御魂大神=ニギハヤヒ尊、布都斯御魂大神=スサノオ尊、布都御魂大神=スサノオの父、十握剣=草薙の剣は、どなたかの説・主張に基づくものですよね?

 事実関係と仮説はきちんと区別し、明示して記載するようにして下さい。また、石上神宮の国宝は、七支刀であって十握剣ではありません。(これも誰かの説?)

 さらに、崇神天皇が石上神宮に奉納したのは平国之剣(くにむけしつるぎ)であり、神武天皇の東征の際に霊威を発揮したもの。十握剣でも草薙の剣でもありません。そして、布都御魂剣とされているのは、こちらの平国之剣です。

 熱田神宮の御神体については、未だ突っ込んだ検討は行っておりませんので何とも言えません。


14.天皇家の伊勢神宮への不参拝

道鏡事件のように天皇家の一大事では、皇祖の天照大御神が祭られている伊勢神宮ではなく宇佐神宮の神託を受けています。
そして、江戸時代までの歴代天皇は伊勢神宮にほとんど参拝せず、熊野大社などに参拝しています。

これは天皇家が伊勢神宮の天照大御神の正体はイエス・キリストと知っているためでしょうか?


<回答>

 本件について私は、現状、回答できる材料は持ちえていません。
 宇佐神宮、熊野大社についても現在、全くの手つかずです。


15.皇紀元年(BC660年)

成田CJブログの「日本とユダヤのハーモニー」によれば、「古事記ではイザナギとイザナミ二尊が日本に最初に天下り、日本の島々を生み出した話が書かれていますが、それは正にイスラエルの救世主としてアジア大陸を横断してきたイザヤの王子らが海を渡って日本へ東漸し、国土をよく整えて作り固めていく過程を神話化したものと考えられます。そしてイスラエルが崩壊したBC 722年から神武天皇が初代天皇として即位するBC 660年までのおよそ60年間、イザヤ一族によって着実に大和の国の土台が築き上げられていったのです。」

これに対して、川守田英二著「日本におけるへブル詩歌の研究」は「東北民謡のナギャド・ヤラ、南部馬方節等の多くの民謡には古代ヘブライ語が含まれており、このへブル詩歌すなわち日本エホバ古典の年代指定は聖書のJ原典とE原典が合体されてJ E古典となったBC700年以前に指定されなければならず、世界最古の記録であり、その由来は北朝イスラエルの失われた十族に非ず、失われざる南朝ユダヤに関連している。そして南朝ユダ族がBC712年に預言者イザヤの一行と共に日本へ東漸し、日本皇室はヒビキヤ王の第一王子のインヌマエルを介し、ダビデ王の永遠の王座を踏襲した世界最古の王である」として似た内容です。

しかし、中国歴代王朝史、韓半島の百済、新羅、伽耶等の王朝史と付き合わせると、神武天皇の大和朝廷成立時期BC 660年は矛盾しているようです。

そして一般に、神武天皇(伊波礼彦)婿入りによる日向王朝と出雲王朝の統合による大和王朝成立はAD 241年としていますが、上記BC 712〜660とAD 241の900〜1000年間を埋める「古史古伝」以外の歴史情報をご存知あればご教示していただければ幸いです。


<回答>

 イザナギを預言者イザヤと結びつける発想は面白いですが、言葉遊びの域を超えるものではないと考えています。
 もし、イザナギの名前が預言者イザヤに由来するのなら、イザナギ以前に生まれた神々の名前にアブラハムやモーセ、ダビデなどの名前があって然るべきであると思います。

 また、BC660年は日本書紀の記述から導き出されたものであり、私は古事記の方を重要視していますので、このBC660年はあまり重視していませんし、また、史実であるとも考えていません。

 なお、BC660年については、江口洌氏が次の通り、天武天皇の即位年を基準として決定されたという説を唱えています。

         BC660年 + (365×365/100) = 天武即位年(673年)

 江口洌氏によれば、365は太陽の死と再生を表す聖数。日本書紀における他の天皇の即位年等も同様に聖数を使って計算された年で決定されているとしています。

 私は、この説が説得力があると考えています。

  ※「古代天皇の聖数ライン」 江口洌 河出書房新社






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