<解説> ○「芦原中国(あしはらのなかつくに)の平定」 最初に遣わされた天菩比(あめのほひの)神はスサノオ(K景行天皇)であり、物語中に示されている「3年間」は、スサノオが天皇となって死ぬまでの期間であると思われます。 また、その後に遣わされた天若日子(あめのわかひこ)はスサノオの子であるL成務天皇。L成務天皇の本当の在位は8年間であったと思われます。 二人とも全く連絡を寄こさなかったことになっていますが、これは、天命に反した、つまり、天つ御子の為に芦原中国(あしはらのなかつくに)を捧げることをせずに、自らが王になってしまったことを象徴しています。 ○「火遠理(ほをりの)命(みこと) 山幸彦と海幸彦」 山幸彦がM仲哀天皇(品牟智和気(ほむちわけ))、そして、海幸彦はスサノオです。スサノオはイザナギから海原を統治するよう命じられており、海はスサノオのテリトリーです。 そして、山幸彦が行った綿津見(わたつみの)神の宮も、やはり海神の宮でスサノオのテリトリーであり、結果、山幸彦(M仲哀天皇)が綿津見(わたつみの)神の宮に行っている間、海幸彦(スサノオ)は山の幸も海の幸も独り占めにできたことになります。 また、豊玉(とよたま)毘売(びめ)は神功皇后に当たります。 3年後に山幸彦は戻ってきたことになっていますが、それはスサノオが死んで戻ることができるようになったからでしょう。 最終的に、山幸彦が海幸彦を服従させていますが、これは、スサノオもM仲哀天皇も死んだ後の話で、N応神天皇の時の話です(※実際にスサノオ派を服従させたのは神功皇后)。 結局、山幸彦はM仲哀天皇とN応神天皇、海幸彦はK景行天皇(スサノオ)とL成務天皇。それぞれ二人分の役割を演じていることになります。 ○「垂仁天皇 品牟智和気(ほむちわけの)王」 品牟智和気(ほむちわけ)が言葉を話すことができなかったというのは、発言権を失っていたことの暗示です。 また、品牟智和気(ほむちわけ)は出雲の神の祟りを治める為に出雲に向かいますが、これは、天皇となったスサノオが、正当の皇位継承者である品牟智和気(ほむちわけ)が反旗を翻すのを恐れて、自分の本拠地である出雲に幽閉した話でしょう。 そして、品牟智和気(ほむちわけ)は、出雲の地で神功皇后である一宿肥長(ひとよひなが)比売(ひめ)と結婚します。
J垂仁天皇の死後、スサノオは正当後継者のM仲哀天皇を無視して、自らが天皇位につきK景行天皇となります。 M仲哀天皇の反乱を危惧したスサノオは、自分の本拠地である出雲にM仲哀天皇を幽閉。M仲哀天皇はそこで神功皇后と出会い結婚します。 3年後にスサノオは死亡し、M仲哀天皇はヤマトへと戻ってきますが、皇位はスサノオの息子のL成務天皇が引き継いでいました。 その後、神功皇后が子供のN応神天皇と共に、皇位を奪還することになります。 ※上に述べた内容だけでは納得できない方もいるかも知れませんが、その他詳細については拙著を参照願います。
○古事記の「火遠理(ほをりの)命(みこと) 山幸彦と海幸彦」と「垂仁天皇 品牟智和気(ほむちわけの)王」において、神功皇后に当たる女性の正体が、それぞれ鰐(わに)と蛇(をろち)で人ではなかったことになっているのに対して、浦島太郎の物語では、乙姫は海亀に変身しています。 ○浦島太郎が蓬莱・海神(わたつみ)の宮に行っていた期間は3年で、「芦原中国(あしはらのなかつくに)の平定」、及び、「火遠理(ほをりの)命(みこと) 山幸彦と海幸彦」に記載されている3年と一致しています。 ○丹後国風土記の逸文では、蓬莱にある御殿の門のところで七人と八人の子供たちが登場しており、この子供たちは乙女により、「すばる星」と「雨降り星」であると説明されています。 「すばる星」と「雨降り星」は、東洋占星術の宿曜道(注)の二十八宿に含まれる星です。二十八宿とは黄道を28分割したもので、「すばる星」と「雨降り星」は西洋占星術の12星座では牡牛座に当たる星々です。 よって、蓬莱の門で「すばる星」と雨降り星」を登場させた理由、それは、これらの星で「牛」を暗示する為であり、その場所が、牛を象徴とするスサノオのテリトリーであることを示す為であると思われます。(※スサノオは牛頭天王とも呼ばれ、例えば、祇園祭は牛頭天王(スサノオ)に対する祭礼です) ○万葉集では、浦島太郎の物語は大阪の住吉の出来事とされていますが、住吉は住吉大社のある所です。 そして、古事記の仲哀天皇の条では、神功皇后に懸った神が 「こは天照大神(あまてらすおほみかみ)の御心ぞ、また、底筒男(そこつつのを)、中筒男(なかつつのを)、表筒男(うはつつのを)の三柱の大神ぞ」と告げており、住吉三神が登場して関連が匂わされています。 なお、「住吉大社神代記」には、塩筒(しおつつの)老翁(おじ)が住吉大神のかわりに国見をした、と記述されており、この塩筒(しおつつの)老翁(おじ)は、古事記で山幸彦にアドバイスをした塩土(しおつちの)老翁(おじ)のことです。 ○拙著にて仲哀天皇の息子であるN応神天皇と同一人物であると指摘した@神武天皇の東征時には、亀の甲に乗って釣りをしている浦島太郎とおぼしき人物が登場し、やはり、関連が示唆されています。
(注)宿曜道は、インド占星術(ギリシャ由来の西洋占星術とインド古来の占星術が習合したもの)と道教由来の天体神信仰、陰陽五行説等が習合したもの。 不空三蔵(705〜774)によって「宿曜経」として体系化され、日本には空海によって806年に密教文献の一つとして伝えられた。 ※風土記の編纂が開始されたのは713年であり、浦島太郎の物語が出来たのは宿曜道が日本に伝わる以前ですが、おそらく、空海が日本に正式に伝える前にも、12星座の知識などは部分的には伝わっていたのではないかと思います。 なお、私は、古事記を編纂し、浦島太郎の物語を作った人物(集団)は、ギリシャ神話と十二星座の知識を持っていたと考えています。 古事記に旧約聖書と新約聖書の内容が盛り込まれていることは拙著で指摘した通りですが、実は、新約聖書の中に、ギリシャ神話と十二星座の知識がなければ読み解くことができない書物があるからです。 それは「ヨハネの黙示録」です。「ヨハネの黙示録」は古事記と同じく、表と裏の物語があるという二重構造を持った書物です。そして、「ヨハネの黙示録」には、ギリシャ神話と十二星座の知識を元に裏の内容が分かる仕組みになっている箇所があるのです。(※本件については、機会があれば発表します) 古事記の物語とギリシャ神話の物語の共通性はよく指摘されるところですし、おそらく、日本に新約聖書が伝えられた際に、ギリシャ神話と十二星座の知識も伝えられたのではないかと私は考えています。
スサノオが死亡したことにより、ヤマトの地に帰れることになったM仲哀天皇。 M仲哀天皇は、「スサノオ後の皇位は自分に引き継がれるのだろう」と期待を抱きながら、出雲に妻の神功皇后を残してヤマトへと向かいます。なお、その時、神功皇后はM仲哀天皇の子を宿していました。 しかし、ヤマトに到着すると、皇位は既にスサノオの息子のL成務天皇が引き継いでおり、本来の天皇家は既に失われて、スサノオ家のものとなっていました。 しかも、自分のいなかった3年間に、見知った人物は一人残らず粛清、または左遷され、全てスサノオ派の人物にとって代わられていました。たった3年間留守にしただけで、まるで、はるか長い時を経たような変わりようです。 そして、あまりのことにM仲哀天皇は絶望し、出雲に戻ることなく悲嘆の内に死亡することになります。