5-(42).第一回遣隋使の言葉の謎解き |
推古天皇の時代に隋の国に派遣された遣隋使。
遣隋使と言えば、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という言葉はあまりに有名です。
これは、隋書の倭國伝に記載されている第2回遣隋使の時ものですが、5回以上派遣されたという遣隋使の記載が隋書に見られるのは、この第2回の時だけではなく第1回の時の記述もあります。
その内容は以下の通りです。
開皇二十年(*1)、倭王(*2)、姓は阿毎、字は多利思比孤(*3)、阿輩弥と号す。使いを遣わして闕(*4)に詣る。上(*5)、所司をしてその風俗を訪わしむ。使者言う、「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座す。日出ずれば、便ち理務を停め、いう、我が弟に委ねん」と。高祖(*6)曰く、「此れ大いに義理なし」と。ここにおいて訓えて改めしむ。
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(*1)・・・推古天皇八年(600年)
(*2)・・・「倭」は原文では「」。通説では「倭」の誤りとする。
(*3)・・・原文では「多利思北孤」。通説では「比」の誤りとする。「タリシヒコ」は足彦、もしくは帯彦。
推古天皇の名とは考えられないので、次の舒明天皇(オキナガタラシヒヒロヌカ)の名と間違ったという説、小野妹子の先祖の孝昭天皇(アメノタリシヒコクニオシヒトのミコト)と混同したという説、及び、天皇の一般的な称号であるとする説がある。
(*4)・・・隋都、長安のこと。
(*5)、(*6)・・・隋の高祖文帝。
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第1回の時に遣隋使が言った言葉は青字の部分です。
天が兄で太陽が弟、夜が明ける前に仕事を始めて、夜が明けると仕事をやめて弟に任せると言っています。
そして、隋の高祖に、「わけの分からぬ慣習をもった国だな」と思われてしまったのでしょう、「そんな慣習、変更しろ」といさめられてしまっています。
ちなみに、天皇がそんなスケジュールで仕事をしていたという話はなく、一般的にこの箇所は意味不明の言葉だとされています。
『魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝 中国正史日本伝(1)』(石原道博編訳・岩波文庫)の解説を見てみましょう。
「倭王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き跏趺して座す。日出ずれば、便ち理務を停め、いう、我が弟に委ねんと」とある記事は、文帝も「これ大いに義理なし」といっているが、これは中国の「天子」の思想にたいし、倭王は「天弟」ないし「日兄」という対抗意識からあらわれたものではあるまいか。いわゆる「日出処天子」や「東天皇」という呼称の伏線が、ここにかくされているようにも思われるのである。
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文帝が後半部分の「天未だ明けざる時・・・」に着目して訓戒し、前半部分をスルーしたのに対して、石原氏は後半部分をスルーして、前半部分のみに対する推論を述べています。
実は、該当の言葉は、全体で一つの意味を持ったものであり、一部だけを抽出しても全く意味がないのです。
確かに、まともに読むと何故、そんなこと言ったのか意味の分からない内容ですが、それは、字義通り捉えるからであり、単になぞなぞやクイズとして捉えると、その意味は簡単に分かります。
実際に、なぞなぞ形式にしてみましょう。
天がお兄さん、太陽が弟。夜が明ける前に仕事を始めて、夜が明けると仕事やめて、後は弟の太陽に任せてしまうもの、な〜んだ? |
こうすれば、この言葉が意味するものが分かった人も多いのではないでしょうか。
答え、それは「明けの明星」です。
明けの明星とは金星のことで、明け方に見える金星を「明けの明星」、夕方に見える金星を「宵の明星」と言います。地球からは金星は明け方と夕方にしか見えないために、古来、それぞれ別の名称で呼ばれてきました。
「天がお兄さん、太陽が弟」とは、空に現れる順番を表しており、天はずっとあるから1番のお兄さん、太陽より金星の方が先に現れるので、太陽は金星の弟になります。
そして、「夜が明ける前に仕事を始めて」とは、金星が、太陽が昇る前に輝き始めること、また、「夜が明けると仕事やめて、弟の太陽に委ねてしまう」は、太陽が昇ると金星の輝きが見えなくなることを表しています。
以上、第一回遣隋使が言いたかったことは、倭王が「明けの明星」であるということだったのです。
そして、これは個別の倭王のことを言っているわけでなく、一般論として言っています。よって、上の注釈で「タリシヒコ」に関する3つの説を記述しましたが、3番目の「天皇の一般的な称号である」という説が正解です。
しかし、第一回遣隋使の謎掛けは、文帝には字義通りに捉えられてしまって訓戒されるしまつ。まさに、「ボケ殺し」です。
もし、文帝が、答えが分からないまでも、せめて「どういうことだ?」というぐらいのツッコミを入れてくれていたなら、その返答から言葉の真意が明確に分かったことでしょう。
おそらく、これは、中国の皇帝が古くから北極星に擬せられることを意識した言葉だと思われます。
北極星は天の中心で不動の星、一方、明けの明星はその周りを回る星の一つ。しかし、明けの明星は太陽を先導し、朝を告げる重要な星であり、それが日本の王であると言いたかったのでしょう。
つまり、日本は中国よりは下だけど、他の国々とは違う重要な国なんだというアピールです。
一般に、第一回遣隋使は中国から訓戒されて恥をかいて終わりという解説がなされますが、上の事実を勘案すると別の事実が見えてきます。
実は、日本側が恥ずかしい思いをして終わったというのは間違い。中国側のこの対応に対して、日本側は中国を大した国じゃないと判断したのです。「なんだよ。中国の皇帝も大したことねーじゃんかよ。こんな程度の謎掛けも分からねーのか」と。
また、このような謎掛けを仕掛けたのは、聖徳太子に違いないでしょう。おそらく、遣隋使にこのような言葉を言わせることによって、中国の格を測ったのではないかと思われます。
そして、このことが第二回遣隋使の「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という言葉につながってきます。
「中国の皇帝=北極星」と「倭王=明けの明星」という格下の存在から、同等にまで格上げです。
決して、第一回で訓戒されて恥ずかしい思いをして縮こまり、そして、第二回で逆ギレして、もしくは血迷って、同等の表現にして隋の煬帝を怒らせたわけではないのです。
以降、倭王が明けの明星に擬せられることはなく、中国の皇帝と同じく北極星とされることになります。
例えば、「天皇」という言葉は、道教の最高神である「天皇大帝」から取られたという説が有力で、「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。(※唐の高宗が
「天皇」 と称し、死後は皇后の則天武后によって 「天皇大帝」 の諡が付けられたので、それをもとにしたという説もあります)
なお、「天皇」という称号を初めて採用したのは、推古天皇だとする説と、7世紀後半の天武天皇の時代(唐の高宗皇帝の用例の直後)だとする説がありますが、1998年に飛鳥池遺跡で「天皇」の文字を記した木簡が発見されて以降は、天武天皇だとする説が有力です。
また、朝廷の正殿を大極殿と言いますが、大極殿は、道教では天皇大帝の居所を指します。
そして、大極殿の原型は飛鳥の小墾田宮の「大殿」にあったと考えられおり、推古天皇11年(603年)に造営された小墾田宮では、北に天皇の住居がある内裏が位置しています。
小墾田宮の造営は、600年の第一回遣隋使の終了後、607年の第二回遣隋使の間になされており、その背景には、「倭王=明けの明星」→「倭王=北極星」という概念の変更があったのではないでしょうか。
なお、『日本書紀』には、天武10年(681年)に天武天皇と皇后(のちの持統天皇)が諸臣を「大極殿」に召して、飛鳥浄御原令の制定を指示したという記載があり、これが「大極殿」という言葉の文献上の初出です。
おそらく、「倭王=北極星」という概念を作りだしたのは、第一回遣隋使の後で聖徳太子。そして、その概念をより体系的なものにしたのが天武天皇だったのでしょう。
ちなみに、日本書紀では、第二回の遣隋使の派遣のみ記載され、第一回は無視されています。
一般には、文帝に訓戒されて恥をかいたという事実を隠したかったのだろうという旨の解説がなされますが、おそらくは、日本書紀編纂時には既に固まっていた「倭王=北極星」という概念に対して、「倭王=明けの明星」であると表明していたという事実が都合悪かったからでしょう。
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