5-(43).新羅から消えた太陽と月 |
拙著『古事記に隠された聖書の暗号』にて、スサノオと「天照の一人目の巫女」(以下、単に「天照」と記述)は新羅から日本に来たという説を記載しました。
その説の元になったのは、古事記の応神天皇の条の「天の日矛」の物語で、その概要は次のものです。
《応神天皇・天の日矛 (概要・一部)》
昔、新羅の国主の子がいた。名は天之日矛と言う。この人は日本に渡来して来たのだが、その理由は――。
新羅国に阿具奴摩と言う一つの沼があった。
この沼のほとりに、ある賤しい女が昼寝をしていると、日射しが虹のように輝いてその陰部を射した。すると、この女は身篭って、赤い玉を生んだ。
その様子をずっと窺っていた賤しい男がいて、その玉を求めて貰い、いつも包んで腰につけていた。
この男は山あいに田を作っていた。そして、耕作人夫たちの食料を、一頭の牛に背負わせて山あいの中に入ると、国主の子の天之日矛に出くわした。
天之日矛は男に「どうしてお前は食料を牛に背負わせて山あいに入るのか。お前はきっとこの牛を殺して食べるのであろう」と言って、すぐにその人を捕えて牢屋に入れようとした。
すると、その男が答えて、「私は牛を殺そうとするのではありません。ただ人夫の食料を運んでいるのです」と言った。しかし、許されなかったので、男はその腰の玉を解いて天之日矛に贈った。
天之日矛は、その賤しい男を許して、その玉を持ち帰り、床のそばに置くと、すぐに麗しい嬢子になった。それで結婚して本妻とした。そしてその嬢子は、いつも様々な珍味を作って、いつもその夫に食べさせた。
ところが、その国主の子が、おごりたかぶってその妻を罵るので、その女性は、「元々私は、あなたの妻となるべき女ではありません。私の祖先の国に行きます」と言って、すぐに密かに小船に乗って逃げ渡って来て、難波に留まった。
この女は、難波の比売碁曾の社に鎮座している阿加流比売という神である。
そこで天之日矛は妻が逃げたことを聞いて、すぐに追い渡って来たが、難波に進もうとしたところ、その渡の神(※海峡の神)が遮って入れなかった。そこで、また戻って多遅摩国(※但馬(兵庫県北部))に停泊した。
|
拙著では、この物語の登場人物を次のように解釈し、
○天の日矛 = スサノオ
○玉が変化した女(阿加流比売) = 天照
○賤しい男と女 = 伽耶の王とその妻(※天照はこの二人の娘)
伽耶が新羅から圧力をかけられて、食物を差し出すと共に、娘の天照を妻として差し出した話だとしました。
なお、これと同様の物語は、古事記の「大年の神裔」に記載されている神々の名前の中に隠された物語にもあります。
さらに、天の日矛が妻に会おうと日本に渡来して難波で渡の神に遮られた話は、古事記の神話時代において、スサノオが天照に会おうとして高天の原にやってきて、天の安の河でスサノオと天照が対峙した話として反映されています。(※詳細は拙著を参照願います)
さて、古事記では、天の日矛と阿加流比売は新羅から渡来したことになっていますが、興味深い説話が『三国遺事』(13世紀末に高麗の高僧一然によって書かれた私撰の史書)にあります。
それは次の話です。
《三国遺事・「延鳥郎と細鳥女」(概要・一部)》
新羅の第八代、阿達羅王の4年(157年)のことであった。
東海のほとりに、延鳥郎と細鳥女という夫婦が住んでいた。ある日のこと、夫の延鳥郎が海で藻を採っているとき、彼の乗っていた一つの岩が動き出して日本に向かった。日本人たちは彼を見ると、非凡な方だと思い王にたてまつった。
妻の細鳥は延鳥の帰りがあまりにも遅いので海に行って探してみると、岩の上に夫の履物が脱いであった。それを見つけた細鳥がその岩の上に登ると、岩は前と同じように動いて行き、日本へと向かった。
細鳥が着くと、そこの人々が驚いて王に報告し、夫婦は再会し、細鳥は貴妃になった。
一方、新羅では太陽と月の光が消えてなくなった。
預言者の日官がその理由を、「我が国に降っていた太陽と月の精が、今、日本に行ってしまったので、このような異変が起こったのです」と新羅の王に告げた。
そこで、王は使者を日本に遣わしたところ、延鳥は新羅に帰ることを断り、その代わりに妻の細鳥が織った絹織物を渡し、持ち帰って天を祭るように言った。
使者は新羅に戻って王にそのことを告げ、言われた通りに天を祭ると太陽と月が元に戻った。
|
新羅の国から二人の夫婦が日本へ行っていなくなり、しかも、その二人は太陽と月の精だったとされています。
これは、天の日矛の物語の新羅視点から記述と言っていいでしょう。
ただし、大きく異なる点が2点あります。
まず1つ目は、天の日矛の物語では、女性が先に日本に渡来して男性がその後を追って渡来したことになっているのに対して、『三国遺事』では男性が先になっていることです。
これは、伝承であってどこまで正確なものか分かりませんし、また、「女性の後を男性が追いかけていった」という内容が男尊女子の観点から受け入れられず変更したのかも知れません。
それほど重大な違いではないと思います。
次に2つ目ですが、『三国遺事』では、この出来事が157年のこととされている点です。
拙著に記載した通り、私は、天照は死後、箸墓(奈良県桜井市にある大型前方後円墳)に葬られたと考えています。そして、箸墓は一般に3世紀半ば過ぎの築造であるとされています。つまり、時代が合わないのです。
なお、『三国遺事』で延鳥郎と細鳥女がいなくなったとしている157年の翌年の158年には、朝鮮半島で実際に皆既日食が起こっています。
おそらく、この日食に結びつける為に、スサノオと天照の話を神話化し、二人が新羅からいなくなった時を157年にして、翌年の日食の理由としたのではないでしょうか。
また、『三国遺事』ではありませんが、『三国史記』新羅本紀(高麗17代仁宗の命を受けて金富軾らが作成したもの。1145年成立)には、173年5月、倭の女王卑彌乎が使者を送ってきたとする記述があります。
卑弥呼は、魏志倭人伝によれば景初3年(239年)に魏に使者を送ったことが記述されていますから、『三国史記』にあるように173年に新羅に使者を送ることは、まずありえません。
これについては井上秀雄氏が『三国史記 第一巻』(平凡社)の中で、『三国志』東夷伝倭人条の景初2年(238年)記事からの造作であり、且つ干支を一運遡らせたもの、としています。
干支が一巡するのは60年であり、その観点で計算し直せば、『三国史記』の173年は233年です。
そして、『三国遺事』の157年に同じく60年を足せば、217年です。仮に、実際は217年のことだったと考えれば辻褄は合います。
なお、『三国遺事』の157年も『三国史記』の173年も共に、新羅は第八代、阿達羅王の治世です。
そして、卑弥呼は箸墓に葬られたとの説が有力であり、また、私は、卑弥呼は天照のことだと考えています(本件については、まだ煮詰まっていませんが)。
おそらく、158年の日食に結びつける為に、延鳥郎らが新羅からいなくなった年を157年に早め、それに合わせて、卑弥呼の遣使も阿達羅王の治世のこととしたのではないでしょうか。
以上、私は、『三国遺事』の延鳥郎と細鳥女の話は、スサノオと天照のことを神話化して伝えたものに違いないと考えています。
|
|
|