5-(60).鏡餅と三種の神器と蛇(その1) |
鏡餅は言わずと知れた正月の飾り物であり、古くから日本では正月を迎える上での必須アイテムであると言って良いでしょう。
当記事では、この鏡餅を構成している餅、串柿、橙のそれぞれが持つ意味、および、その全体の形象の意味を考察して行きたいと思います。
1.鏡餅の意義
多くの日本人が、「正月に飾るもの」と当たり前のように捉え、深く考えずに鏡餅を供えていると思いますが、まずは、一般的に唱えられている鏡餅の意義について押さえておきたいと思います。
『日本民族大辞典 上』によると、正月に鏡餅を飾る理由は以下の通りのようです。
『日本民族大辞典 上』 「鏡餅」(※要約) (福田アジオ 他(編)/吉川弘文館)
○鏡餅は、もともと銅鏡の形に似て丸くて平たいものだったが、近年は厚いものが使用されるようになった。
○鏡型の餅は、心臓を象徴化したものといわれ、心臓に魂が宿るとみなすことから、各自の霊魂をかたどるものとして年神に捧げるのが鏡餅の古い形であった。
○鏡餅は正月11日などの鏡開きに家族で食べるが、神に供えたものを食べることによって活力を得ようとするものであり、魂の再生・更新を図るという意味がある。 |
上記の通り、本来、鏡餅というものは年神を家に迎える為のアイテムのようです。
年神というのは、毎年正月にやってくる来訪神のことで、「年」は稲の実りを意味して穀物神であり、また、地方によっては、「農作を守護する神」と「家を守護する祖霊」が同一視されたために祖霊であるともされます(*1)。
なお、正月は本来、魂(命)が新たになる月であり、つまりは、一つ年を重ねる日です。そして、正月に年神を家に迎えるという行為は、新たな一年を生き抜くエネルギーをもらうと共に、その年の五穀豊穣を祈念するものであり(*2)、鏡餅を含め、門松や注連縄などの飾り物もその年神を迎える為のものです。
ちなみに、現在、日本では、年齢の数え方は、「満年齢」が一般的になりましたが、古くは「数え年」が使用されていて、全ての人は誕生日ではなく、正月に年齢を1つ加算していました。年齢の数え方も、正月の制度と深く関係していたと言えるでしょう。
正月に古い年が終わって新しい年が始まり、年が「再生・更新」を図るのと同じように、年神の力によって、人間も古い年齢から新しい年齢になり、「魂の再生・更新」を図っていたのです。
そして、このような、「古い年齢の自分が死に、新しい年齢の自分が再生する」という発想には、様々な宗教見られる「死と再生」の観念が見て取れます。
例えば、古代エジプトでは、日没を太陽の死と捉え、太陽が日々、死と再生を繰り返すと考えられていましたし(*3)、また、太陽が日々、その力を弱めてきたのが転じて、力を強め始める冬至の日は、太陽の死と復活と捉えられ、多くの宗教で祭や儀式がとり行われます。キリスト教のクリスマスなども、その由来は冬至祭です。
(*1)Wikipedia「年神」
(*2)『日本の「行事」と「食」のしきたり』 (新谷尚紀/青春出版社/2004) P.20
(*3)『図説 エジプトの「死者の書」』 (村治笙子・片岸直美/河出書房新社/2002) P.50
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2.鏡餅と銅鏡
上記に引用した『日本民族大辞典 上』には、鏡餅について、「銅鏡の似て」とあり、あくまで「形が似てるだけ」という旨の記述がなされていますが、『もち(糯・餅)』によると少し違うようです。
『もち(糯・餅)』 P.245-246 (渡部忠世・深澤小百合/法政大学出版局/1998)
名の由来は『本朝食鑑』に「大円塊に作って鏡の形に擬える」とあるように、巨大な神鏡の円形を模したと考えられている。鏡は多くの神社の御神体になるほど神聖な存在で、その鏡を模した鏡餅は、神鏡の代わりであり、正月には拝み見るべきものであったと思われる。
一方、鏡餅というからには初めは鏡のように掛けるか、吊るす懸餅だったのではないかとも考えられている。たとえば、神戸市長田区の長田神社では修二会である追儺式(2月3日)に、泰平餅と称する大鏡餅2個を榊の葉で飾って、拝殿内に餅花や小餅とともに左右に掛け、影の餅と呼ぶ鏡餅12個も蔓で結んで供える。同じように京都府乙訓郡の宝積寺でも、古くから追儺の儀式に75個もの鏡餅を呉竹にはさんで堂内の鴨居に掛けたという。また近畿地方の山村のオコナイと呼ぶ修正会では、特別な祈願のある人は割った竹片で鏡餅を十文字にはさみ、藤蔓で吊ってお堂の長押や柱に懸ける風習が今でも伝えられている。 |
ここに記載されているように、本来の鏡餅の「丸くて平たい」形状は、「銅鏡に似ている」のではなく、むしろ、「銅鏡に似せた」というのが正解のようであり、鏡餅は「神聖な鏡に似せて形作った餅」ということができるでしょう。
そして、「鏡餅」という言葉の初出は室町時代の『類聚雑要抄』ですが(*4)、『源氏物語』に「もちひかがみ」という名称で鏡餅が登場するので(※「もちひ」は「もち」の古形)(*5)、少なくとも平安時代中期には「鏡の形をした餅」は既にあったと考えられます。
また、730年代に成立したと考えられている『豊後国風土記』には、余った餅を矢の的にすると、餅は白い鳥となって飛び立ち、農民たちがその年のうちに死に絶えたという話が記載されています(※似た物語は『山城国風土記』にもあり)(*6)。
餅を「矢の的」にするからには、おそらく、弓道の的とおなじく、円形で平たい形状、つまりは、鏡と同様の形状をしていたことが推察され、「鏡餅」という言葉はともかく、稲作と鏡の双方に対する信仰が結び付き、「餅を鏡の形にして祭や儀式に使用する」という風習はかなり古くからあったのではないかと思われます。
「奢れる伊呂具」 中津瀬忠彦(1916-1973)画
(注)これは、『山城国風土記』の方の物語が描かれたものだが、餅が銅鏡の形になっている。
(*4)『日本語源大辞典』(前田富祺・小学館) 「鏡餅」
(*5)『もち(糯・餅)』(渡部忠世・深澤小百合/法政大学出版局/1998)) P.246
(*6)『図説 日本人の源流を探る 風土記』(坂本勝(監修)/青春出版社/2008) P.62,P.68
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※(その2)へ続く
◆参考文献等
書 名 等 |
著 者 |
出 版 社 |
『図説 エジプト「死者の書」』
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村治笙子・片岸直美 |
河出書房新社 |
『日本の「行事」と「食」のしきたり』
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新谷尚紀 |
青春出版社 |
『日本語源大辞典』
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前田富祺(監修) |
小学館 |
『もち(糯・餅)』
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渡部忠世・深澤小百合 |
法政大学出版局 |
『図説 日本人の源流を探る 風土記』
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坂本勝(監修) |
青春出版社 |
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