5-(14).浦島太郎の正体(その3)


 浦島太郎の物語は、丹後国風土記の逸文では雄略天皇の御世のことであると記載され、また、日本書紀にも、雄略天皇の治世22年のくだりに次のように記載されています。
<現代語訳>
 秋、七月に、丹波国の余社(よさ)(こおり)管川(つつかわ)の人、瑞江(みずのえ)の浦嶋子が舟に乗って釣りをしていると、大亀がかかった。たちまち亀は乙女となり、浦嶋子は妻にした。ふたりは海に入り、蓬莱山へ行き、仙人たちを訪ねた。そのことは別巻(ことまき)に書かれている通り。

 しかし、「5-(12).浦島太郎の正体(その1)」、「5-(13).浦島太郎の正体(その2)」で記載した通り、浦島太郎の正体が第14代仲哀天皇であるのなら、第21代雄略天皇の時の話であるわけがありません。

 当記事では、浦島太郎の物語が何故、雄略天皇の御世のことでなければならなかったのか、その理由を解明したいと思います。


 まず、雄略天皇の系譜を見てみます。

      


 S安康天皇は市辺之(いちのべの)忍歯(おしはの)(みこ)に皇位を継がせようとしますが、それを恨んだ21雄略天皇は市辺之(いちのべの)忍歯(おしはの)(みこ)を狩りに連れ出してだまし討ちにし、第21代天皇となります。(※日本書紀の記述による)

 そして、24仁賢天皇と23顕宗天皇は、父が殺されたことを知り播磨へと逃れていましたが、子の無かった22清寧天皇の死後、発見され皇位を継ぐことになります。

 雄略天皇の系譜を見ると、私が主張しているスサノオ(K景行天皇)の系譜(※詳細は「5-(13).浦島太郎の正体(その2)」を参照)と似ていることが分かります。
 皇位を奪い、その皇位は息子へと受け継がれた後、本来の皇位継承者へと戻っています。


 さらに、雄略天皇は、ヤマトタケルと素行が似ていることも良く指摘されるところです。
 「古事記(下) 全訳注」(講談社学術文庫)で次田真幸氏は次のように述べています。
 この物語(※安康天皇の条の目弱王の物語)でのオハツセノ王(※雄略天皇)についての書き方は、中巻のヤマトタケルノ命に通う点が多い。童男(をぐな)」という語は、ヤマトタケルノ命の別名ヤマトヲグナノ命に見られるものであるし、「(ころものくび)()りて打ち殺す」というのはヤマトタケルノ命がクマソタケルを討ったときの行動に通じるものである。名前にも「建」の字が共通しており、意識してこのように語られたものと思われる。
※注釈は管理人
 ヤマトタケルは拙著で指摘した通り、スサノオのことです。
 つまり、雄略天皇は、その系譜と行動で、自らがスサノオの役割を演じていることを示していると言えます。


 次に、古事記の雄略天皇の条の「三.赤猪子(あかゐこ)」という物語を見てみます。
<雄略天皇 三.赤猪子(あかゐこ) (現代語訳・概略)>
 あるとき、天皇が遊びに出かけて三輪川に着いた時、川のほとりで衣服を洗っている少女がいた。その容姿はたいそう美しかった。

 少女の名は引田部(ひきたべ)赤猪子(あかゐこ)と言い、天皇は「お前は他の男に嫁がないでいなさい。今に宮に召し上げよう」と言って朝倉宮に帰った。

 そして、赤猪子(あかゐこ)は天皇のお召しの言葉を待って、とうとう八十年がたった。

 赤猪子(あかゐこ)は長い年月の間に体つきも痩せしぼみ、もはや召される望みがないことは分かっていたが、せめて、それまで待っていた気持ちを天皇に伝えようと思い、たくさんの品を持たせて参内して献上した。

 ところが天皇はすっかり忘れていて、「お前はどこの婆さんだ」とたずね、赤猪子(あかゐこ)は事情を説明した。

 天皇はたいそう驚き、結婚してあげようと思ったが、相手が非常に年老いていて無理だと悲しみ、歌を送り、赤猪子(あかゐこ)も返歌した。

 そして、天皇は赤猪子(あかゐこ)にたくさんの品物を与えて帰した。

 若く美しかった少女が老人になってしまうなど、浦島太郎の物語の関連が伺えます。

 ただし、次のように、浦島太郎とは逆の話になっていることが分かります。
<老人になったのは>
 ○浦島太郎・・・男
 ○赤猪子(あかゐこ)・・・女

<出会った相手と>
 ○浦島太郎・・・亀姫と結婚
 ○赤猪子(あかゐこ)・・・天皇と結婚しない

<相手と出会ってから>
 ○浦島太郎・・・亀姫と幸せに暮らす。そして、別れてから不幸になる
 ○赤猪子(あかゐこ)・・・天皇のお召しを待つ無為な日々が続いて、そのまま年老いてしまうという不幸が訪れる。そして、天皇に再会し、歌をもらい、たくさんの品物を与えられる。
 何故、わざわざ浦島太郎と逆の話を挿入したのか。
 その答えは、同じく、雄略天皇の条の「五.葛城山」を見れば分かります。
<雄略天皇 五.葛城山 (現代語訳・概略)>
 あるとき、天皇は葛城の山に登った。そのとき大きな猪が出て来た。すぐさま天皇が鳴鏑(なりかぶら)の矢でその猪を射ると、その猪は怒って唸り声をあげて寄ってきた。

 それで天皇は恐ろしくなって(はん)の木に逃げ登った。

 またあるとき、天皇が葛城山に登った時、御供のたくさんの官人たちはみな、紅い紐をつけた青い(すり)染めの衣服を着ていた。

 そのとき、その向かいの山の尾根伝いに山に登る人があった。その様子は天皇の行列にそっくりで、また、服装も随行の人々も、よく似て同等だった。
 
 そこで天皇は「この大和の国に私をおいて他に大君はいないのに、今、誰が私と同じような様子で行くのか」と供の者に尋ねた。
 天皇はひどく怒って矢を弓につがえると、大勢の官人らもみな矢をつがえた。すると向こうの人たちもまた、みな弓に矢をつがえた。

 それで天皇は「それではそちらの名を名乗れ、そして互いに名を名乗ってから矢を放とう」と言った。向こうの人はこれに答えて、「私は、悪い事も一言、善い事も一言で言い放つ神、葛城の一言主(ひとことぬし)の大神である」と言った。

 天皇はこれを聞いて恐れかしこまって「恐れ多いことです、我が大神よ。現実のお方であろうとは気がつきませんでした」と言って、ご自分の大刀や弓矢をはじめとして、多くの官人らの来ている衣服をも脱がせて、拝礼して献上した。

 するとその一言主(ひとことぬし)の大神はお礼の拍手をしてその献上の品を受け取り、天皇が帰る時に見送った。

 雄略天皇が葛城山に行った時、自分以外に天皇はいないはずなのに、同じ格好をした一行がおり、そして、最後には相手に服従したという話です。

 これは、むしろ、スサノオに皇位を奪われた仲哀天皇の話です。

 雄略天皇はその系譜といい、素行といいスサノオの役割を担っていたのに、今度は、皇位を奪われた仲哀天皇側の役割を担っていて、役割が入れ替わっています。

 ここまでくれば、「三.赤猪子(あかゐこ)」の物語が浦島太郎の物語と逆の構成になっていた理由がお分かりでしょう。

 「『雄略天皇→スサノオ』であったのが、『三.赤猪子(あかゐこ)』より後の話は、逆の立場である『雄略天皇→仲哀天皇』に変わっていますよ」という暗示なのです。

 つまり、「三.赤猪子(あかゐこ)」より後の雄略天皇の物語では、仲哀天皇のことが語られているのです。


 この観点で再度、「五.葛城山」の物語を検証しておきましょう。

 まず最初に、天皇は葛城山で出会った猪に矢を射っています。猪は神の使いですから、この猪は後に出てくる一言主(ひとことぬし)の大神の使いです。

 よって、最初に仕掛けたのは仲哀天皇側のようです。おそらく、スサノオの人気や権勢を危惧したのでしょう。
 しかし、反撃にあい、恐れて敗走しています。

 また、別の時に葛城山で、天皇である自分と同じ格好をした一行と出会っています。スサノオは仲哀天皇を負かしたことにより、さらに勢いが増していたのでしょう。

 そして、一触即発の状態になりますが、最終的に天皇は一言主(ひとことぬし)の大神に恐れかしこみ、自分の刀や弓矢、そして、供の者たちが来ていた衣服も脱がして献上しています。

 天皇が自分の持ち物を渡したのは、相手に王権を譲り渡したことの象徴です。しかも、供たちの衣服も渡していますから、自分の取り巻きたちの官位も相手に渡したことになります。

 そう、仲哀天皇は完全に王権をスサノオに渡してしまったのです。
 ただし、ここで渡したのは、王としての権力だけで、皇位そのものではないでしょう。いくら、天皇とは言え、皇位につく資格の無い者に皇位を与える権限はないからです。



 以上、浦島太郎の出来事を雄略天皇の御世のこととした理由。それは、浦島太郎である仲哀天皇の物語が雄略天皇の物語の中に隠してあるからです。

 浦島太郎が仲哀天皇であることに気づいた者が、浦島太郎の物語に導かれて雄略天皇の物語にたどり着くと、そこに仲哀天皇の話が隠されていることに気づく仕組みになっているのです。


 なお、雄略天皇の物語の中に隠された仲哀天皇の話にはまだ続きがありますが、それは次の記事で見ていきたいと思います。






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