5-(37).案山子が象徴するもの


 いきなりですが問題です。

 下のイラストは、稲田に案山子とありふれた日本の風景を描いたものですが、このイラストは何を象徴しているでしょうか?

         


 おそらく、当ページの常連の方なら、簡単に分かったのではないかと思います。

 このイラストに描かれたものが象徴しているものは、次の通りです。
案山子 ・・・ 磔刑に処されたイエス・キリスト
稲穂 ・・・ 人々
田んぼ ・・・ この世
雀や害虫 ・・・ 稲穂をついばむ雀や成長を妨げる害虫等は、人々を惑わす悪魔や偽預言者、偽キリストたち
 全体で「人々が成長して良い実をならすことを見守っているイエス・キリスト」という内容を象徴したイラストになっています。

 また、案山子は笠をかぶったものが定番ですが、笠は前から見ると三角形に見えます。これは、三位一体を象徴すると共に、三つの言語で「ユダヤ人の王ナザレ人イエス」と書かれていたという罪状板も象徴しています。

 そして、後ろの山は、真ん中が高く、その両側にやや低い山が描かれています。「山」という字そのものです。

 これも三位一体を表しており、また、「真ん中が高く、両側がやや低い」という構造は、ユダヤ教の密教ともいうべきカッバーラで使用される生命の樹(セフィロトの樹)の3つの柱と同じ構造になっています。
<生命の樹(セフィロトの樹)>
 


 さらに、案山子について、もっと突っ込んで見ていきましょう。

 「かかし」という言葉はもともと、田畑が鳥獣に荒らされるのを防ぐために、それらの嫌う匂いを出して近づけないようにしたものである「かかし((かが)し)」が、同じ目的を持った案山子にも転じて使用されるようになったものです。
 そして、「案山子」という字は、中国の禅僧が用いた言葉で、案山(山中の低地の意)の田畑に鳥獣を防ぐために立てた人形を意味する語であり、それを日本で「かかし」の漢字に当てるようになったものです。(『日本語源大辞典』(小学館))

 また、案山子は古くは「そほど」、もしくは「そほづ」と呼ばれており、日本最古の書物である古事記にも登場します。

 それは、大国主神の物語で、ある時、ガガイモの船に乗った小さな神が現れますが、どの神に聞いてもこの神の正体が分かりませんでした。そこでヒキガエルが「久延毘古(くえびこ)なら、必ず知っている」と言うので、久延毘古(くえびこ)に聞いてみると、「これは、神産巣日(かみむすひの)神の御子、少名毘古那(すくなびこなの)神だ」と答えたというものです。

 続いて、古事記ではこの久延毘古(くえびこ)について、
 今者(いま)に山田の曽富騰(そほど)というぞ。此の神は、足は行かねども、(ことごと)に天の下の事を知れる神なり。
 と記載しています。

 曽富騰(そほど)という言葉は「(そほ)つ(雨、涙などによって、ぐっしょり濡れること)」から来ており、「濡れそぼつ人」という意味で、先に述べた通り案山子のことです。

 また、その名の久延毘古(くえびこ)は、クエはクユ(崩)の連体形で、破れ傷んでいることを表した名前です。

 「破れ傷んでいる」ということが名前になっている久延毘古(くえびこ)ですが、最初に述べた通り、案山子が象徴するものは磔刑に処されたイエス・キリストです。

 次に、古事記に記載された案山子の内容と、新約聖書に記載されたイエス・キリストの内容を比べてみましょう。

 イエスは磔刑に処される際、まず、総督のピラトに鞭打たれてから兵士に引き渡され、また、刑執行の地へと向かう際は、人々につばきをかけられたり、叩かれたりします。
 そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。(マタイの福音書27章26節)

 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまづいて、からかって言った。「ユダヤ人の王様。ばんざい。」
 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。(マタイの福音書27章28-29節)
 そして、その後、イエスは十字架上で息を引き取ることになります。
 十字架に架けられたイエスは、久延毘古(くえびこ)という名と同じように「破れ傷んで」いたのです。

 また、「曽富騰(そほど)(濡れそぼつ人)」という名は、十字架に架けられることを避けたいと思いながら、最終的にはそうなることを受け入れたイエスの苦悩、及び、十字架に架けられて死亡したイエスに対する使徒や信者たちの悲しみが込められているのではないかと思われます。


 さらに、古事記において久延毘古(くえびこ)は、(ことごと)に天の下の事を知れる」という特徴を持っています。

 田んぼに突き立てられたままどこも行けない案山子が、世の中のことを何でも知っているというのは不思議なことです。『古事記注釈 第三巻』(西郷信綱・ちくま学芸文庫)にも次のように記載されています。
 ただ、「(ことごと)に天の下の事を知れる神なり」といったわけは、どうもよく分からぬが、古人がカガシに特殊な呪力を認めていたことは確かである。
 学者の方もやっぱりよく分からないようです。

 しかし、案山子がイエス・キリストを象徴しているのなら、その理由は簡単です。
 「ヨハネの黙示録」には次のような記述があります。
 長老たちとの間に、ほふられたと見える小羊が立っているのを見た。これには七つの角と七つの目があった。その目は全世界に遣わされた神の七つの御霊である。(ヨハネの黙示録5章6節)
 イエス・キリストたる小羊は七つの目を持っており、それは「全世界に遣わされた神の七つの御霊」であると記載されています。つまり、イエス・キリストは、その、神の御霊である七つの目を通して全世界のことを見ているのです。だからこそ、(ことごと)に天の下の事を知れる」のです。
 また、古事記には「足は行かねども」とありましたが、「七つの御霊」を通して見るので、わざわざ行く必要もないわけです。


 なお、古事記では、
山田曽富騰(そほど)と記述されていましたが、「山」という字は、先に記載したように三位一体を表す文字、そして、「田」という字には四角の中に十字架が描かれています。つまり、「山田」という文字だけで、最初に掲載したイラストの内容を表していると言えます。



 以上、案山子は磔刑に処されたイエス・キリストを象徴するものなのです。

 そして、田んぼに案山子を立てるという行為は、「人々が成長して良い実をならすことを見守っているイエス・キリスト」を表現した一種の祭であり、また、田んぼと稲穂をそれぞれ、世の中と人々に見立て、そこにイエス・キリストを象徴する案山子を持ち込むことによって、稲の成長を助けさせ、見守らせるという呪法でもあるのです。

 なお、記事「5−(32).稲荷神社と「ヨハネの黙示録」」に記載した通り、宇迦之御魂(うかのみたまの)神の正体は再臨するキリストであり、その宇迦之御魂(うかのみたまの)神は良い実をならせた人々を刈り入れた姿で描かれていました。

 案山子はその前の段階であり、再臨して刈り入れる前の、人々が良い実をならせるのを見守っている状態を表したものなのです。






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