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 5-(75).猿田毘古神と塩土老爺(その1)


 当記事は、猿田毘古神と塩土(しおつつの)老爺(おじ)との関係性について論じて行きたいと思いますが、猿田毘古神については前記事にてさんざん説明していますので、塩土(しおつつの)老爺(おじ)を中心に説明をして行きたいと思います。



1.塩土老爺(塩椎神)

 塩土(しおつつの)老爺(おじ)塩椎(しおつちの)神)は、海幸山幸の説話において、山幸彦(ホホデミ)が兄に借りた釣り針をなくして海辺で泣いているとやって来て、海神の宮へと送り出した神です。

 そして、『古事記』では、塩土(しおつつの)老爺(おじ)の活躍はこの一箇所のみですが、『日本書紀』では複数箇所に登場します。

 まず、最初の登場は、以下の通り、アマテラスの孫のニニギが天から地上へと降臨した直後に現れます。
『日本書紀』 本文 (現代語訳)
 皇孫(※ニニギ)のお進みになる様子は次の通りであった。■日(くしひ)二上(ふたかみ)天浮橋(あまのうきはし)から、浮島の平らな所にお立ちになって、膂宍(そしし)胸副国(むなそうくに)(※背中の骨のまわりに肉のないような痩せた国)を丘続きに歩かれ、よい国を求めて、吾田(あた)の長屋の笠狭崎(かささのみさき)にお着きになった。

 そこに人がいて自ら
事勝国勝(ことかつくにかつ)長狭(ながさ)と名乗った。皇孫が問われ、「国があるのかどうか」と言われると、答えて、「国があります。お気に召しましたらどうぞごゆっくり」という。それで皇孫はそこに止まられた。


※現代語訳は、『全現代語訳 日本書紀 上』(宇治谷 孟/講談社学術文庫/1988)を参考にした。
※■・・・木へん+「串」の下に「心」
 ここに登場したのは、事勝国勝(ことかつくにかつ)長狭(ながさ)という名の神ですが、一書(第四)には、以下の通りあり、事勝国勝(ことかつくにかつ)長狭(ながさ)は、塩土(しおつつの)老爺(おじ)の別名であることが分かります。
『日本書紀』 一書(第四) (現代語訳)
 ときにそこに一人の神があり、名を事勝国勝(ことかつくにかつ)長狭(ながさ)といった。そこで天孫がその神に問われるのに、「国があるだろうか」と。答えていう「あります」と。そして「勅のままに奉りましょう」と。それで天孫はそこにとどまられた。その事勝国勝(ことかつくにかつ)は、伊奘諾(いざなぎの)(みこと)の子で、またの名を塩土(しおつつの)老爺(おじ)という。

 なお、本文の方では、上記の通り、ニニギに対して「どうぞごゆっくり」と言っただけですが、こちらの一書(第四)の方では、国を「奉りましょう」と言っています。


 ちなみに、ここで留意しておきたいのは、
塩土(しおつつの)老爺(おじ)が猿田毘古神と交代したかの如く登場しているという点です。

 猿田毘古神は、天孫降臨の際、ニニギの先導役を務め、地上まで送り届けると、そのまま自分は伊勢へと向かいます。一方、その直後に、未知の土地に不慣れなニニギの導き手・相談役として登場したのが塩土(しおつつの)老爺(おじ)なのです。

 さらに、塩土(しおつつの)老爺(おじ)は、『日本書紀』において、ニニギだけでなく、その子孫たちに対しても、導き手・相談役として登場します。

 まずは、ニニギの子のホホデミ(山幸彦)ですが、最初に記載した海幸山幸の説話が『日本書紀』にも記載されており、ホホデミを海神の宮へと導く役割を果たしています。

 次に、ホホデミの孫の神武天皇にも、やはり、塩土(しおつつの)老爺(おじ)が導き手・相談役として登場します
『日本書紀』 本文 (現代語訳)
45歳になられた時、兄弟や子供たちに言われるに、「昔、高皇産霊(たかみむすひの)(みこと)と天照大神が、この豊葦原(とよあしはら)瑞穂国(みずほのくに)を、祖先の瓊瓊杵(ににぎの)(みこと)に授けられた。そこで瓊瓊杵(ににぎの)(みこと)は天の戸をおし開き、路をおし分け先払いを走らせておいでになった。この時、世は太古の時代で、まだ明るさも充分でなかった。その暗い中にありながら正しい道を開き、この西のほとりを治められた。代々父祖の神々は善政をしき、恩沢がゆき渡った。天孫が降臨されてから、179万2470余年になる。しかし遠い所の国では、まだ王の恵みが及ばず、村々はそれぞれの長があって、境を設け相争っている。さてまた塩土(しおつつ)(おじ)に聞くと『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』と。思うにその土地は、大業をひろめ天下を治めるによいであろう。きっとこの国の中心地だろう。そのとび降ってきた者は、饒速日(にぎはやひ)というものであろう。そこに行って都をつくるにかぎる」と。諸皇子たちも「その通りです。私たちもそう思うところです。速やかに実行しましょう」と申された。この年は太歳(たいさい)(*)の甲寅(きのえとら)である。


※上記は、神武天皇が兄弟や子供たちに語った言葉の途中から。
※太歳・・・木星の異名。木星は十二年の周期で巡行することから、十二支と結び付けて太歳干支を記すことが行われた。
 このように、神武天皇が東征を始めるきっかけとなったのが、塩土(しおつつの)老爺(おじ)『東の方に良い土地があり、青い山が取り巻いている。その中へ天の磐舟(いわふね)に乗って、とび降ってきた者がある』という言葉であったと記載されています。

 そして、この記述で、塩土(しおつつの)老爺(おじ)の『日本書紀』での活躍は終了です。




 以上、当記事は、塩土(しおつつの)老爺(おじ)の説明だけで終了してしまいましたが、(その2)では、いよいよ謎解きをして行きたいと思います。




◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『全現代語訳 日本書紀 上』

宇治谷 孟 講談社学術文庫







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