「セフィロトの樹」の解釈(その2)

※当記事は「『セフィロトの樹』の解釈(その1)」の続きです。




●均衡の柱(ダァト・Eティファレト・Hイエソド)


 次に、その上昇の過程にある三つのセフィラですが、「ヨハネの黙示録」の記述から引用すれば、それぞれ次のように対応しています。
セフィラ名 対 応
  ダァト 新しい歌
ティファレト 小羊の歌
イエソド モーセの歌
 拙著、『「ヨハネの黙示録」開封』に記載した通り、「新しい歌」とは新たに降臨する救世主が説く新しい教えのこと、そして、「小羊の歌」は新約聖書、「モーセの歌」は旧約聖書を表しています。
<ヨハネの黙示録14章3節>
 彼らは、御座の前と4つの生き物、及び、長老たちの前とで、新しい歌を歌った。しかし、地上から贖われた14万4千人の他には、誰もこの歌を学ぶことができなかった。
<ヨハネの黙示録15章2-3節>
 彼らは火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の竪琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。
 彼らは、神のしもべモーセの歌小羊の歌を歌って言った。


●下高世界(Fネツァク、Gホド、Hイエソド)

 順に下のセフィラから説明していきましょう。

 まず、Hイエソド(基礎)ですが、エデンの園(=Iマルクト(王国))から追放された人類には、最初に「モーセの歌」である旧約聖書が与えられます。

 旧約聖書を一言で象徴する言葉と言えば「律法」でしょう。有名なモーセの十戒には次のような戒めが書かれています。
 1.わたしのほかに神があっては
   ならない
 2.あなたの神、主の名をみだりに
   唱えてはならない
 3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ
 4.あなたの父母を敬え
 5.殺してはならない
 6.姦淫してはならない
 7.盗んではならない
 8.隣人に関して偽証してはならない
 9.隣人の妻を欲してはならない
 10.隣人の財産を欲してはならない
 モーセの歌を与えられた人類は、最初に「神を敬い、ルールを守る」という人としての基本的なことを学ぶのです。これが「基礎」という名で示されるセフィラ、Hイエソドの意味です。

 そして、神に与えられた戒めを守ることができた人間には、F勝利(ネツァク)とG栄光(ホド)が与えられます。一方、守ることができなければ、神の罰として屈辱的な敗北が与えられます。

 旧約聖書の物語には、そのことが繰り返し記載されています。

 例をあげれば、神に忠実であったダビデには王の地位が与えられ、王権が永遠に続くことを約されます。
 一方、その逆の例をあげれば、イスラエルの民を率いてエジプトを脱出しカナンへと向かったモーセは、カナンを前にして人々がその地に住んでいる民と戦うのを恐れたため神の怒りを買い、カナンに入ることなく荒野をさすらうことを命じられます。しかし、人々はその命に背き、勝手にカナンに進軍して撃退され、結局、モーセを含む、その代の人々はカナンの地に足を踏み入れることなく死亡します。

 これが、Hイエソド(基礎)、Gホド(栄光)、Fネツァク(勝利)が構成する「下層世界」が意味しているものです。



●中高世界(Cケセド、Dゲブラー、Eティファレト)

 下層世界は、例えるなら、子供にPM6時という門限が与えられているようなものです。まだ子供で未発達な存在には保護者の監督下でより厳しいルールが与えられますが、その子供が成長してくるとルールは徐々に緩やかになり、行動の自由の幅が大きくなっていきます。
 これがEティファレト(美)の段階で、人類には旧約聖書の次に新約聖書が与えられます。

 新約聖書を読んでみると、イエスが旧約聖書の律法を破って批判される様がよく描かれています。例えば、次の記述です。
<ルカの福音書13章11-16節>
 すると、そこに18年も病の霊につかれ、腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女がいた。
 イエスは、その女を見て、呼び寄せ、「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると女はたちどころに腰が伸びて神をあがめた。
 すると、それを見た会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って群衆に言った。「働いてよい日は6日です。その間に来て直してもうらうがよい。安息日には、いけないのです。」
 しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たち。あなたがたは、安息日に牛やロバを小屋からほどき、水を飲ませに連れて行くではありませんか。
 この女はアブラハムの娘なのです。それを18年もの間サタンが縛っていたのです。安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」
 安息日とは、神が天地創造を6日で完成させ7日目に休んだことにちなんだもので、1週間の内、一日は休んで、仕事をしてはいけないことになっています(※ユダヤ教では土曜日が安息日でキリスト教では日曜日とされる)。上であげたモーセの十戒の「3.主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。 」にあたります。

 その安息日にイエスが人をいやした(=仕事をした)ので、律法違反だと非難されますが、「安息日だからといってこの束縛を解いてやってはいけないのですか。」と反論しています。

 また、聖書の別の箇所では、イエスは、パリサイ人たちに弟子たちが安息日に麦の穂を摘んでいるのを批判されますが、「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません。人の子は安息日にも主です。」と答えています。(マルコ3章23−28節)

 つまり、杓子定規に律法の文言にとらわれないで、その文言の本質を理解し、臨機応変に対応しろということです。
 これは、人類が成長し、次の段階に進んだことを示しています。


 また、旧約聖書を一言で表すと律法なら、新約聖書は愛でしょう。
 この愛は他者への愛であって自己愛ではありません。他者への愛に満ちた人は美しく、自己愛に満ちた人は醜いものです。これが、Eティファレト(美)の意味です。

 さらに、Eティファレト(美)と共に中高世界を構成するのは、Cケセド(慈悲)とDゲブラー(峻厳)です。

 やさしいだけなら、それは軟弱となり、厳しいだけなら、それは独善となります。慈悲と峻厳はバランスが大切であり、どちらだけあれば良いというものではありません。
 そして、そのバランスを制御するものが愛です。もし、その愛が他者へのものなら、自己に厳しく他者にやさしい者になり、一方、その愛が自己へのものなら、自己にやさしく他者に厳しい者となります。どちらが美しい生き方かは明白でしょう。

 なお、この段階に至ると神からF勝利(ネツァク)やG栄光(ホド)は与えられません。これは、前の段階のもので、ルールを守れた子供に親がご褒美をあげるようなものです。

 そして、次の段階に進んだ人類には、自分で考え行動する自由が与えられ、その行動の責任は自分自身がとることになります。また、自分の行動の結果が自分に利益をもたらすか、不利益をもたらすかは、その行動次第であり、親が出てきてどうのこうのするものではありません。

 仮に、正しいことをした結果、それが自分に不利益をもたらすものであることが分っている場合、あえて己の信念を貫き通すか否かは本人の自由です。しかし、この世的には不利益であったとしても、その行為は天の国に富を積むものとなります。



●至高世界(@ケテル、Aコクマー、Bビナー)、及び、ダァト

 次に、Eティファレト(美)をクリアすると、隠された叡智であるダァト(知恵)に至ります。

 ダァトに対応しているのは、先述の通り、新たに降臨する救世主が説く、新しい教えです。

 まだ救世主は現れておらず、新しい教えは説かれていませんので(※私が知らないだけかも知れませんが)、その内容を知ることはできません。人類にはまだ知らされていない叡智であるからこそ、隠され明らかにされていないものとして、通常、ダァト(知恵)は描かれないのだと言えるでしょう。

 ただし、新しい教えは、まだ明らかにされていないとは言え、その内容は、「セフィロトの樹」からおおよその予想はできます。

 ダァトは知識で、Aコクマーは知恵、Bビナーは理解です。同種の言葉が並んでいます。おそらく、新しい教えによって説かれる内容は、知恵と理解をもたらすための知識であると思われます。一言で表すとしたら、それは「知」と言えるでしょう。

 ダァト(知恵)を通らなければ至高世界にはたどり着けないと言われていますが、簡単に言えば、下層世界と中高世界をクリアして、神を敬い、ルールを守り、他者への愛にあふれていたとしても、頭が悪ければどうしようもないということでしょう。
 自分では正しいと思って行動していても、そもそも、正邪や真偽の判断をする能力がなければ、意図していたことと真逆の結果をもたらしかねません。世の中、自分のしていることを正義だと信じ切って、逆に害悪をまき散らしている例などいくらでもあります。

 以上、問題等に直面した時、その問題の本質を正しく理解し、その的確な解決方法を導きだす知恵となるものが、ダァト(知識)であり、新たな救世主が人類にもたらす新しい教えとなることでしょう。



 なお、「ヨハネの黙示録」によれば、救世主によって新しい教えが示されてから、新しいエルサレムが天から降って来るまでのスケジュールは以下の通りです。

      新しい歌 → 救世主による統治開始 → 1000年 → 新しいエルサレム
                           (※詳細は拙著『「ヨハネの黙示録」開封』を参照)

 人類は新しい教えを与えられ、それを元に1000年間さまざまな経験を通して学んでから、ようやく完成した存在となって新しいエルサレム(=@ケテル(王冠))に至ることができるということでしょう。

                    




◆参考文献等
書 名 な ど 著 者 出 版 社
『カバラの道』

ゼブ・ベン・シモン・ハレビィ
松本ひろみ(訳)
出帆新社
『失われた極東エルサレム「平安京」の謎』
飛鳥昭雄
三神たける
学研
Wikipedia(生命の樹)    




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