5-(18).広隆寺と籠神社の配置(裏内宮と裏外宮) |
記事「5−(17).浦嶋神社、籠神社の配置」で示した通り、「瀧原宮→籠神社」の方位角(注)は320度となっており、この方位角は「伊雑宮→伊勢神宮(外宮)」と一致しています。
(注)方位角・・・北を0度とした時の角度。東は90度、南は180度になる
方位角320度、及び、317度は、記事「5−(6).伊勢神宮の配置の秘密(三番目の伊勢神宮)」で、三番目の伊勢神宮である伊雑宮を見つけた際に出てきた方位角です。
宗像大社の3つの神社、そして、伊勢神宮の3つの神社は、これらの方位角で配置されていました。
<宗像大社 (福岡県)> |
<伊勢神宮 (三重県)> |
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そして、「瀧原宮→籠神社」の方位角が320度。この事実が意味するものはいったい何でしょうか。
瀧原宮は伊雑宮と同じく伊勢神宮の別宮で、かつ、離れた場所にある為に遥宮と呼ばれる神社。遥宮と呼ばれるのはこの2社だけです。
遥宮の一つである伊雑宮を基準に内宮と外宮が配置されているのならば、瀧原宮にも同様にもう一組の内宮と外宮が配置されているのではないか
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以下では、この仮説を元に検証を行っていきたいと思います。
この仮説を前提にすれば、瀧原宮から320度の方位角に配置されている籠神社は外宮と言うことになります。ただし、表向きには外宮とはされていませんので、正確には「裏外宮」と言ったところでしょうか。
そして、そう考えると、「5−(17).浦嶋神社、籠神社の配置」に記載したように、籠神社だけが伊勢神宮と同じく、本殿の高欄上に「五色の座玉」という飾りをつけることを許されている理由が明確になります。籠神社も伊勢神宮の一つだからです。
次に、「裏内宮」に当たる神社を探してみます。瀧原宮から317度の方位角に重要な神社があるはずです。
そして、残念ながら神社は見つかりませんでしたが、有名な寺が見つかりました。京都市太秦にある広隆寺です。
神社ではなくとも聖徳太子ゆかりの寺です。「古事記の真の作者は聖徳太子ではないか」と考えている管理人としては神社ではなくても無視できない寺です。
出発点 |
到達点 |
方位角 |
距離 |
瀧原宮 |
広隆寺 |
317°45′44.24″ |
97,501.828(m) |
※緯度経度の算出は、「MAPPLE 地図」を使用
※方位角と距離は、「測量計算(距離と方位角の計算)」のPGMを使用
<参考:各神社の緯度経度>
神社名 |
北緯 |
東経 |
備考 |
瀧原宮 |
北緯34度21分47秒 |
東経136度25分41秒 |
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広隆寺 |
北緯35度0分42秒 |
東経135度42分36秒 |
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広隆寺は平安京遷都以前から存在していた京都最古の寺院で、聖徳太子が建立したもの。帰化人系の氏族である秦氏の氏寺でもあります。
日本書紀には広隆寺建立のエピソードが記載されていて、推古11年(603年)に聖徳太子が「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」と諸臣に尋ねたところ、秦河勝が名乗り出て蜂岡寺(※広隆寺の当初の名前)を建てたということになっています。なお、この仏像が国宝第一号に指定された半跏思惟像の弥勒菩薩像であるとされています。
なお、創建当初は、この弥勒菩薩を本尊としていましたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、そして、現在の本尊は聖徳太子像となっています。
さて、仮に、広隆寺が瀧原宮から317度の方位角に存在しているとしても、ただ、それだけの理由で、「裏内宮」であると決めてつけてしまうのは心許ないものです。
さらに、広隆寺について、「裏内宮」と呼ぶに相応しいような特別は配置が見いだせないかを調べてみます。
まず、広隆寺と同じく秦氏が氏神としている神社に松尾大社があります。
松尾大社の創祀は大宝元年(701年)で、勅命により秦忌寸都理が造営したもの。祭神は大山咋神と中津島姫命です。また、この神社は古事記にも記述され、「大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近つ淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ」と記載されています。
この松尾神社を基準にすると、「松尾神社→広隆寺」の方位角は50度。
そして、その延長線上に船岡山があり、船岡山は伊勢神宮の遥宮の瀧原宮から方位角320度のライン上に位置しています。
つまり、船岡山は瀧原宮と籠神社を結んだライン上に位置し、しかも、「松尾大社→広隆寺→船岡山」の方位角は50度ですから、このラインは「瀧原宮→船岡山→籠神社」のラインと船岡山を交点にして直角になっていることになります。(※360度−320度+50度=90度)
また、「松尾大社→広隆寺→船岡山」のラインを西側に伸ばしてみると、宮崎県の高千穂峰の天の逆鉾にたどりつきます。
高千穂峰は天孫降臨の地とされている場所で、その山頂には天の逆鉾が突き立てられています。なお、この逆鉾をいつ誰が突き立てたのかは不明ですが、一説によると奈良時代には既に存在していたと言われています。
出発点 |
到達点 |
方位角 |
距離 |
松尾大社 |
広隆寺 |
50°16′33.43″ |
2,604.215(m) |
松尾大社 |
船岡山 |
50°15′59.43″ |
7,909.681(m) |
瀧原宮 |
船岡山 |
320°52′53.86″ |
97,375.736(m) |
天の逆鉾 |
広隆寺 |
50°46′02.69″ |
564,357.580(m) |
<参考:各神社の緯度経度>
神社名 |
北緯 |
東経 |
備考 |
松尾大社 |
北緯34度59分48秒 |
東経135度41分17秒 |
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船岡山 |
北緯35度2分32秒 |
東経135度45分17秒 |
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天の逆鉾 |
北緯31度52分59秒 |
東経130度55分17秒 |
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ちなみに、船岡山は風水思想に基づいて建設された平安京において、都の北に位置する玄武として見立てられた山です。その他、南の巨椋池(現存しない)が朱雀、東の鴨川が青龍、そして、西の山陰道(現在の国道9号)が白虎とされ、都の要とされました。
次に、広隆寺を起点に、日吉大社と多賀大社は方位角66度のライン上にあります。
日吉大社は比叡山にある神社で、祭神は大己貴神と大山咋神。大山咋神は松尾大社の祭神でもあり、先に示した古事記の記載の「近つ淡海国の日枝の山に坐し」と記述されているのが日吉大社になります。
また、多賀大社は琵琶湖の東側に位置する神社で、祭神は伊邪那岐神と伊邪那美神。こちらも古事記に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と記述が見られます。
また、方位角66度は夏至の日に太陽が昇る方角です。
出発点 |
到達点 |
方位角 |
距離 |
広隆寺 |
日吉大社 |
66°17′25.12″ |
15,662.590(m) |
広隆寺 |
多賀大社 |
66°08′12.56″ |
58,126.446(m) |
<参考:各神社の緯度経度>
神社名 |
北緯 |
東経 |
備考 |
日吉大社 |
北緯35度4分6秒 |
東経135度52分2秒 |
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多賀大社 |
北緯35度13分20秒 |
東経136度17分38秒 |
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---------------------- 以下、2010.5.19追加 --------------------------
≪訂正≫
夏至の日に方位角66度の方向から太陽が昇るのは赤道付近の場合であり、緯度によって、その方位角は異なります。
広隆寺の緯度で夏至の日に太陽が昇るのは、方位角61度の方向となります。(※「日月出没計算サービス」のPGMを使用。計算年月は2010年6月21日で計算)
なお、上記ラインが方位角66度となっているのは、地軸の傾き(23.4度。90度-23.4度=66.6度)を意識しているのではないかと思われます。
---------------------- 以上、2010.5.19追加 --------------------------
さらに、松尾大社と上賀茂神社と下鴨神社は二等辺三角形を形成し、この三角形の中に広隆寺と船岡山が位置しています。
「松尾大社→上賀茂神社」と「松尾大社→下鴨神社」の距離は、それぞれ、9,114.690mと9,113.976m。誤差は71.4cmです。
出発点 |
到達点 |
方位角 |
距離 |
松尾大社 |
上賀茂神社 |
42°29′55.82″ |
9,114.690(m) |
松尾大社 |
下鴨神社 |
241°33′04.14″ |
9,113.976(m) |
<参考:各神社の緯度経度>
神社名 |
北緯 |
東経 |
備考 |
上賀茂神社 |
北緯35度3分26秒 |
東経135度45分20秒 |
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下鴨神社 |
北緯35度2分9秒 |
東経135度46分33秒 |
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上賀茂神社は京都市北区にある神社で祭神は賀茂別雷大神。
一方、下鴨神社は京都市左京区にある神社で、祭神は賀茂別雷大神の両親である賀茂建角身命と玉依媛命です。共に鴨氏の氏神を祀る神社で、両社で執り行われる葵祭は有名です。
また、この二社は平安遷都以降、皇城鎮護の神社として崇敬を受けることになり、松尾大社と共に「賀茂の厳神、松尾の猛神」と並び称されました。
おそらく、これら三社によって形成される二等辺三角形は、その内側が特別な領域であることを示しているのではないかと思われます。
以上の情報を地図上に表すと次の通りとなります。
<京都>
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<西日本>
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残念ながら、籠神社と瀧原宮の中間点に船岡山が位置しているわけではありませんが、上記図に示した十字架も「5−(7).伊勢神宮の配置の秘密(グランドクロス)」で明らかにしたグランドクロスに続き、西日本を横断する二つ目のグランドクロスと言えるのではないでしょうか。
以上、広隆寺と籠神社が瀧原宮を起点とした「裏内宮」と「裏外宮」であることは間違いないと思います。
つまり、広隆寺は太陽神である天照大神の宮であり、そして、天照大神の宮ということは、その真の正体はイエス・キリストの宮であることになります。
しかし、広隆寺はその名の通り寺院であって神社ではありません。ただし、拙著に記載した通り、仏教の神々はキリスト教的に解釈し直すことが可能です。
広隆寺の本尊で見てみると、まず、創建当時の本尊である弥勒菩薩は、いずれ再臨するキリストの姿です。また、次の本尊である薬師如来は、多くの病める人々を癒したイエス・キリストの姿です。日本に壮大な国仕掛けを行った人物・集団は仏教を日本に導入しながらも、実は、その仏たちの姿にキリストの姿を投影していたと言えるでしょう。
さらに、広隆寺の現在の本尊は聖徳太子です。記事「5−(3).聖徳太子はイエス・キリスト?」で、聖徳太子がイエス・キリストを投影した姿である可能性について言及しましたが、今回の調査により、その可能性は高まったと言えるのではないかと思います。
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