5-(21).広隆寺と摩多羅神


 「5−(18).広隆寺と籠神社の配置(裏内宮と裏外宮)」で指摘した通り、広隆寺は裏内宮であり、その正体は太陽の宮です。

 そして、その広隆寺には牛祭という祭があります。

 牛祭は毎年10月12日に行われる祭りで、「やすらい祭」、「鞍馬の火祭」と共に京都三大奇祭として知られています。現在は広隆寺の祭となっていますが、明治以前は広隆寺の境内にあった大酒神社の祭礼でした。大酒神社は元は大辟神社と記し、明治の神仏分離政策で広隆寺から約100m東の地に遷座しました。

 祭りの内容は、白い仮面をつけた摩多羅(またら)神が牛にまたがり、それに赤と青の鬼面をつけた四天王や松明等を持った人たちが従い、境内と周辺を一巡。薬師堂前で祭文を読み、これが終わると同時に堂内に飛び込むというもので、五穀豊穣・悪魔退散を祈願する祭であるとされています。

○牛祭で使用される面
摩多羅(またら)神> <四天王の鬼面>

 そして、牛祭の由来は次の通りです。
 三條天皇の長和元年(1012年)のこと、比叡山の恵心僧都(えしんそうず)が日夜、極楽浄土の阿弥陀如来を拝することができるようにと祈願していた。
 ある夜の夢で、「安養界の真の無量寿仏を拝みたいと思うのならば、広隆寺の繪堂(※現在の講堂)の本尊を拝みなさい」とのお告げを受け、恵心僧都が大いに喜んで広隆寺に参ってその本尊を拝した。
 恵心僧都(えしんそうず)は霊夢がウソでなかったことを喜び、阿弥陀の三尊の像を手彫りして、常行念佛堂を建立し、同年9月11日より三日間、唱名念佛を修し、摩多羅(またら)神を念仏守護の神にして国家安全、五穀豊穣、魔障退散の御祈祷法会を修行したのがそもそもの起こりとされる。
 阿弥陀如来を見たいと祈願していたら、霊夢を見て広隆寺に行き、夢がウソでなかったことに感激し、阿弥陀三尊の像を彫って、摩多羅(またら)神を念仏守護の神にしたて法会を修したという話です。

 阿弥陀如来は梵名が「アミターバ」、「アミターユス」で、それぞれ、「無限の光を持つもの」、「無限の寿命を持つもの」という意味。それらを漢訳したものが「無量光仏」、「無量寿仏」となります。

 しかし、上記、由来話では、何故、突然、摩多羅(またら)神が出てくるのか不明です。

 摩多羅(またら)神は、天台宗、特に玄旨帰命壇(げんしきみょうだん)における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる神です。しかし、仏典に登場するわけでもなく、かと言って、古事記や日本書紀などに登場するような日本古来の神でもなく、正体不明の謎の神であるとされています。

 また、天台宗の光宗が14世紀に書いた『渓風拾葉集』の第39「常行堂摩多羅神の事」には、延暦寺三世座主である円仁が唐に留学した後、帰国する際に船中で虚空から摩多羅(またら)神の声が聞こえて感得し、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されています。

 摩多羅(またら)神は阿弥陀如来と深い関係があるようですが、それ以上のことは分かりません。


 結論から言えば、私は、摩多羅(またら)神の正体、それは太陽神・光明神であるミトラ神であると考えています。

 ミトラ神を拝するミトラ教は、正義、契約、盟約、真実をつかさどる一神教であり、創造神信仰、太陽信仰、光明信仰、救済信仰、軍神信仰を含む宗教です。

 ミトラ教の期限は紀元前20世紀にさかのぼり、当時、中央アジアに住んでいたインド=イラン系の人々の間に起ったとされています。インド=イラン系の人々の南下により、イラン、メソポタミア、小アジア、インドに広まり、現地の宗教と相互に影響を与えあいました。

 また、ミトラ教は古代ギリシャやローマ帝国にも影響を与え、アレキサンダー大王は自らをミトラ神として崇めさせましたし、ローマ帝国においてはキリスト教と国教の座を争ったほどでした。

 そして、キリスト教が国教となって他教の排斥を開始するまでは相互に影響しあいました。

 例えば、キリスト教のクリスマスは太陽神であるミトラ神の冬至の誕生日に催される祭を取り込んだもので、また、イースター(復活祭)は春分と関係のあるミトラ神の昇天日の祭を取り込んだものであると言われています。(※冬至は、日照時間が減少から増加に転じる日であり、一方、春分は、昼夜の時間がほぼ同じになる日で、それ以降、昼の時間が長くなります。どちらも、太陽信仰を前提として祭が行われる日です)

 なお、ミトラ神はインドにおいてマイトレーヤーと呼ばれ、これが仏教に取り込まれて弥勒菩薩となりました。弥勒菩薩の救世主的性格は元々はミトラ神のものなのです。


 さて、何故、このミトラ神が摩多羅(またら)神なのか。その理由を以下に記します。
摩多羅(またら)神をローマ字で表すと「MaTaRa」で、ミトラは「MiToRa」です。

 言葉が伝播する際、「子音は変わらず、母音のみ変化する」というのは良くあることで、例えば、大天使ミカエル(Michael)は仏語では「ミッシェル」になり、英語では「マイケル」になります。

 「ミトラ」→「マタラ」の語韻変化は十分ありえることです。

○裏内宮であり、かつ、太陽神の宮である広隆寺で行われる祭の主神として、太陽神・光明神であるミトラ神は相応しいものです。

○ミトラ神はインドではマイトレーヤーと呼ばれ、それが仏教に取り込まれて弥勒菩薩となりました。よって、ミトラ神=弥勒菩薩であり、広隆寺の創建当初の本尊である弥勒菩薩とも重なってきます。

○牛祭では摩多羅(またら)神は牛に乗りますが、ミトラ神も牛と深い関わりがあります。

 古代ローマではミトラ神は「牛を屠るミトラ」というモチーフでよく描かれ、密儀が行われた洞窟にはその壁画や彫刻が設置されていましたし、また、皇帝が発行した記念コインの裏側に使用されたりもしました。

 これはミトラ教の神話を元にしたもので、ミトラが聖牛を殺したことにより、その体からこの世の豊穣の種子がほとばしり出たという神話に基づくものです。

○中国の南宋時代に天台宗系の慈昭子元が創始した白蓮教では、過去仏=青陽会、現在仏=青陽会、未来仏=白陽会という考えがあり、つまり、過去、現在、未来を色で表わすとそれぞれ、青、赤、白です。(ちなみに、白蓮教を母体とした反乱が紅巾の乱で、その反乱により元が倒れて明が起こることになりました)

 おそらく、仮面に使われる青、赤、白は過去、現在、未来を表しているのだと思われます。そして、摩多羅(またら)神は白なので、未来仏である弥勒菩薩に対応しています。(※ただし、南宋が始まったのは1127年で、牛祭が始まったのが1012年。牛祭が始まった時点で、このような色の考え方があったかは確認できていません)

○ミトラ神は光明神であり、また、阿弥陀如来も光明神です。天台宗では、同じ性質をもったミトラ神が摩多羅(またら)神と名を変え阿弥陀如来に習合、取り込まれたと考えることができます。

摩多羅(またら)神は天台宗の総本山である比叡山延暦寺と関係が深いですが、比叡山には広隆寺から方位角66度(※夏至の日に太陽が昇る方角)の方角にある日吉大社があります。(※参考:5−(18).広隆寺と籠神社の配置(裏内宮と裏外宮)

 つまり、比叡山は広隆寺から見て、夏至の日に太陽が昇る方角にある山であり、延暦寺は広隆寺と共に太陽神を祀るに相応しい寺であると言えるでしょう。(※延暦寺自体は方位角66度のライン上からは外れています)

 ちなみに、太陽の光を意味する栃木県の日光では、日光山輪王寺に阿弥陀如来が、常行堂に摩多羅(またら)神が祀られています。

 裏内宮である広隆寺に、仏教の神だけでなくミトラ神が出てきたりして、戸惑っている方がいるかも知れません。

 しかし、これも神道の神の考え方からすれば問題ないのです。

 神は万物に宿るものであり、日本人やイスラエル人のみの神ではなく全世界の神です。日本以外の地域に日本人が最高神であると考えている神の教えがもたらされることも当然ありえますし、また、地域が異なれば違う名前で呼ばれるのは当たり前のことです。よって、神を名前で判断するのではなく、その教え等の本質を見抜いて見極めることが必要となってきます。

 また、自分達が最高神であると考えている神と一部だけが同じ性質で、他は異なっている場合もあります。

 例えば、弥勒菩薩は釈迦の弟子であり、はるか未来の末法の世に降臨して人々を救う神です。いつの日か降臨して世を救うというのは再臨するキリストの姿に他なりませんが、一方、釈迦の弟子であったというのはキリストのものではありません。

 しかし、神道にとって神はいくらでも分裂・融合が可能なのですから、最高神であるキリストと同じ性質を持った弥勒菩薩は、釈迦の弟子にキリストを合祀した姿に過ぎないのです。


 話を牛祭に戻しましょう。

 牛祭で四天王がかぶる鬼面は、一方の口が阿吽の阿で、もう一方が阿吽の吽。それぞれ、陰陽の陽と陰を表しています。そして、イラストでは分かりづらいですが、鬼面には四角い金色の紙のようなものが三角形の形に取り付けられています。
---------------------------------以下 2009.8.21追記------------------------------
(注)幕末期の絵師、浮田(いっけい)が描いた「太秦牛祭図屏風」を見ると、赤と青の鬼面は見られるものの、口は双方とも開口しており阿吽の形はなっておらず、また、金色の紙は張り付けられていません。

鬼面の口の阿吽と金色の紙は、比較的最近になってからの仕様だと思われます。
---------------------------------以上-------------------------------------------
 両方とも△の形をしていますが、本来、三角形を陰陽で表せば、陰が下向きの▽、陽が上向きの△となります。両方とも上向きの△となっているのは、口の形で陰陽を表現しているからでしょう。

 つまり、本来、吽の口をした青鬼の方が下向きの▽であり、そう考えれば、二つ合わせてダビデの星、つまり、六芒星が完成します。また、四角い金色の紙は四天王の面の全てについていますから、全部あわせて12(3×4)でイスラエルの12部族を表しているとも言えます。

 そして、そう考えると、牛祭は「ミトラ神(=再臨するキリスト)とそれにつき従うイスラエルの12部族」という形になり、ヨハネの黙示録に予言された未来を表しているとも言えます。

 少し、こじつけ臭く感じるかも知れません。しかし、元々、牛祭は広隆寺の境内にあった大酒神社の祭です。そして、大酒神社は元は大辟神社と記していました。

 景教(注)の経典では、「大闢」はイスラエル王国の初代王のダビデを指します。門がまえの有無の違いはあれど、大辟神社はダビデ神社と解することができます。大辟神社がダビデ神社ならば、六芒星やイスラエルの12部族が出てきてもおかしくないと言えるでしょう。
(注)景教・・・古代キリスト教派の一つのネストリウス派の中国での呼び名。マリアの称号「神の母」を否定し、431年のエフェソス公会議で異端として排斥され、ヨーロッパの地を離れ中国(唐)に伝わった。「景教」は中国語で「光の教え」という意味。ちなみに「景」には日光という意味もある。
 また、広隆寺、及び、大辟神社がある土地は「太秦(うずまさ)」です。景教の寺(教会)は中国では「大秦寺」と言われており、こちらも、「太」と「大」で点の有無の違いはあれど、ほぼ同じと言えます。

 つまり、太秦(うずまさ)にある大辟神社は、キリスト教の地にあるダビデ神社ということになります。

 さらに、広隆寺の境内には「いさら井」と呼ばれる井戸があり(※現在は、境内から少し離れた民家の脇にある)、これは、「イスラエルの井戸」はないかという指摘があります。

 イスラエルは、イスラエル民族の父祖の一人であるヤコブの別名であり、つまり、「いさら井」は「ヤコブの井戸」。この「ヤコブの井戸」は、イエスがサマリア人の女性から水をもらった井戸でもあります(ヨハネの福音書4章6節)。

 (※上記の、大辟=ダビデ、太秦(うずまさ)=大秦、いさら井=イスラエルの井は、佐伯好郎氏が指摘したものです)



 以上、広隆寺は裏内宮だけあって、キリスト教、及び、イスラエルの痕跡を色濃く残している所であると言えるでしょう。 

 おそらく、表からは隠された裏であるからこそ、あえて意図的に、これだけの痕跡を残したのではないでしょうか。






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