5-(53).稗田阿礼と古事記


 『古事記』の序文には、『古事記』編纂の経緯が記されています。

 それによると、まず、天武天皇(631?-686)が編纂を指示したのが始まりで、その時は、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)に『帝紀』、『旧辞』(*)を読み習わせるよう指示しただけでした。
(*)
○『帝紀』・・・天皇氏族の系譜
○『旧辞』・・・神話・物語など古くからの諸伝承
 その後、時が流れ、元明天皇(621-721)の御代に、中途になっていた作業を本格的に開始することになり、(おおの)安万侶(やすまろ)稗田(ひえだの)阿礼(あれ)が読み習ったものを撰録するよう指示したのが和銅4年(710)年9月18日のこと。
 そして、(おおの)安万侶(やすまろ)が撰録を済ませて元明天皇に献上したのが和銅5年(711)正月28日です。

 なんと、『古事記』全三巻の撰録にかかった期間は、たったの4ヵ月。かなりの短期間での作業です。


 拙著『古事記に隠された聖書の暗号』にも記載しましたが、私は、『古事記』の序文に記載された、上述のような『古事記』編纂の経緯は表向きの建前上のものであり、本来は、もっと昔(おそらくは聖徳太子の頃)に作成されたのではないかと考えています。(※後世に、ある程度、手を入れられた可能性はあるでしょうが)

 そう考える理由には、他にも次の点があります。
○『古事記』と同じ日本国の歴史書である『日本書紀』は、養老4年(720)に完成しているが、同時期に似た内容の歴史書を2つも編纂する意味がない。

○歴史書を作成する場合、編纂時の天皇の先代までの歴史を記載するのが通常であると思われるが(ただし、編纂にかかる期間が長ければ、それ以降まで記載することはあるだろう)、『古事記』は、33代推古天皇(554-628)までしか記載していない。
 ちなみに、『日本書紀』は、40代天武天皇の時に着手され、完成は43代元明天皇の時。そして、記載されているのは、41代持統天皇(645-703)までである。

○『古事記』には「上代特殊仮名遣い」という、奈良時代に使用されていた言葉遣いに沿って漢字が当てられている。同様の書物に『万葉集』があるが、「モ」について甲類・乙類の区別があるのは『古事記』のみで、それは、『古事記』の作成が、実は、『万葉集』よりも古いからだと考えられる。
 これを前提にすれば、『万葉集』は7世紀後半から8世紀後半頃にかけて編まれたとされているので、『古事記』の成立は7世紀後半以前となる。

 (※「上代特殊仮名遣い」の説明については、記事「6-(7).上代特殊仮名遣い」を参照)

 さて、上述の通り、『古事記』の編集者は、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)(おおの)安万呂(やすまろ)になるのですが、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)は全くの謎の人物です。

 一方、(おおの)安万呂(やすまろ)は奈良時代の文官であり、『続日本紀』や『弘仁私記』などにも名前が見られ、しかも、1979年に奈良市此瀬町で墓が見つかるなど、実在していたことが間違いない人物です。

 ちなみに、太氏(多氏)につき、秦氏との関連を示唆する説がありますが、当記事では触れません。


 以降、『古事記』の2人の編纂者の内、謎の人物である稗田(ひえだの)阿礼(あれ)の方に注目して話を進めて行きたいと思います。


 稗田(ひえだの)阿礼(あれ)について、『古事記』は次のように記載しています。
 時に舎人(とねり)ありき。(うぢ)稗田(ひえだ)、名は阿礼(あれ)、年はこれ二八。人と()り聡明にして、目に(わた)れば口に()み、耳に()るれば心に(しる)しき。
  稗田(ひえだの)阿礼(あれ)は、天武天皇から命令を受けた当時、28歳で、舎人(とねり)だったらしく、また、「目に(わた)れば口に()み、耳に()るれば心に(しる)しき」とあることから、特殊な記憶力を持った人だったことが伺えます。
 なお、舎人(とねり)とは、皇族や貴族に仕え、警備や雑用などに従事していた人のことです。

 稗田(ひえだの)阿礼(あれ)について分かっていることは、基本的にこれだけです。

 ただ、名前は非常に暗示的です。

 「稗田」は直訳すれば、「稗の田」。「稗」は、穀物の1つで、日本では昭和期まで重要な主食穀物でした。

 そして、「田」は、記事「5‐(53).案山子が暗示するもの」でも記載した通り、この世の象徴。そして、田に育つイネ等の穀物は人々を象徴し、田に立てられる案山子は、「人々が成長して良い実を成らせるのを、再臨の時まで見守っているキリスト」を象徴しています。

 つまり、「稗の田」で、「稗」=「人々」と「田」=「この世」を表わしていると言えます。

 次に「阿礼」ですが、これは、神の出現、再現を言い表わす言葉であり、それに伴って、その出現した寄代(よりしろ)となる物品も「阿礼」と呼ばれます。(参考:『上賀茂神社』竹内光儀・学生社P.67)

 なお、この「阿礼」という言葉を名に持つ神事に、上賀茂神社の「御阿礼(みあれ)神事」というものがあります。

 これは、葵祭の中で行われる神事の1つですが、上賀茂神社のホームページでは以下の通り、説明がなされています。
http://www.kamigamojinja.jp/matsuri/miare.html
 御阿礼神事(みあれじんじ)とは賀茂祭に先立つ5月12日夜に斎行される、当神社祭儀中最も古く且つ重儀の神事であります。

 秘儀として一般の奉拝は許されていません。
 「最も古く且つ重儀の神事」とあるように、かなり、重要な神事であることが分かります。

 そして、この「御阿礼(みあれ)神事」では、具体的には以下のことがなされます。
○神体山の神山(こうやま)と、本殿との間にある丸山の一角に、仮の神籬(ひもろぎ)となる阿礼所が作られる
○阿礼所の榊に、葵をかざした宮司以下が、神霊を迎える
○榊に遷された神霊は、摂社 棚尾社と遥拝所へ移され祀られる
(参考)京都通百科事典「御阿礼神事
 つまり、榊に神を降臨させ、迎え入れる神事が「御阿礼(みあれ)神事」であり、言わば、「阿礼」は、「神よアレ」の「アレ」だと言うことができるでしょう。

 まとめると、「稗田(ひえだの)阿礼(あれ)」と言う名前は、「人々(稗)がいるこの世(田)への、神の降臨」という意味になります。

 『古事記』の序文には、驚異的な記憶力が特徴として記載されていましたが、名前からすれば、むしろ、神を降臨させる寄代(よりしろ)としての性格が表わされていると言えます。

 また、『日本書紀』についての官僚たちの勉強の記録である『日本書紀私記』の『弘仁(こうにん)私記』(800年代前半に成立)の序には、「稗田(ひえだの)阿礼(あれ)は天の鈿女(うづめ)の命の後」と記載されています。

 つまり、この記述を信じれば、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)は天の鈿女(うづめ)の子孫ということになります。

 天の鈿女(うづめ)は、天の岩戸に隠れた天照大神を、再び、この世に現した神であり、また、天孫降臨の際には、天の八衝(やちまた)にいた猿田毘古神の正体を明らかにしました。

 天の鈿女(うづめ)は「阿礼(あれ)の神」、つまり、神を降臨させる神だと言っていいでしょう。

 そして、その天の鈿女(うづめ)の子孫とされ、かつ、名前に「阿礼(あれ)」の文字を持つ稗田(ひえだの)阿礼(あれ)もやはり、神を降臨させる能力がある人物だと言うことになります。

 そして、『古事記』は、先に記載した通り、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)が詠唱した内容を(おおの)安万侶(やすまろ)が撰録した書物です。

 神を降臨させる能力がある稗田(ひえだの)阿礼(あれ)の口から出た言葉、それは、神の言葉に他ならず、そのことは、『古事記』が神の書物であることを表わしていると言えるでしょう。

 また、『古事記』の実質的な作者が稗田(ひえだの)阿礼(あれ)であるなら、それは、『古事記』が「稗田(ひえだの)阿礼(あれ)」の書物、つまり、「人々(稗)がいるこの世(田)へ神を降臨」させる書物だと言うことができます。

 拙著『古事記に隠された聖書の暗号』に記載した通り、『古事記』で最初に生まれたとされる造化三神の名前の中には、「神ヤハウェ」を示す言葉が隠され、また、『古事記』には、『旧約聖書』、『新約聖書』の物語が隠されて記載されています。

 世の人々に対して見せている表向き、建前上の神々の真の正体を明らかにし、この世に「阿礼(あれ)」させる書物が、『古事記』に他ならないのです。


 以上、おそらく、「稗田(ひえだの)阿礼(あれ)」と言う名前は、『古事記』という書物の性質を示す為の仮名ではないかと思います。


 ちなみに、稗田(ひえだの)阿礼(あれ)を祀った神社があるので、参考までに掲載しておきます。
社名 祭神 場所 備考
稗田神社 阿礼比売命(稗田阿礼) 兵庫県揖保郡太子町 ○推古天皇14年(606年)勅願により造建されたとされる。
○当社では稗田阿礼を女性として祀っており、また、祭神については、聖徳太子の妻である(かしわでの)大郎女(おおいらつめ)とする説もある。
賣太(めた)神社 主祭神・・・稗田阿禮命(稗田阿礼)
配祀神・・・天鈿女命、猿田彦命
奈良県大和郡山市稗田町





◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『地図とあらすじで読む 古事記と日本書紀

坂本勝(監修) 青春出版社
『上賀茂神社』
竹内光儀 学生社
Wikipedia(稗田阿礼)    
Wikipedia(太安万侶)
Wikipedia(ヒエ)






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