5-(59).大国主神の物語と「生命の木」(その4)

 ※(その3)からの続き。



5.三井と三囲

 前記事で、「三井(みい)」は「三つの十字架」で、「父と子と聖霊の三位一体」を表象すると記載しましたが、「三井(みい)」と言えば、似た名前の神社があります。東京都墨田区向井にある三囲(みめぐり)神社です。

 この三囲(みめぐり)神社は、創建年代不明で、もとは田中神社といい、「三囲(みめぐり)」という名の由来は以下の通りだそうです。
Wikipedia「三囲神社
 近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという
 白狐が三回めぐった(回った)から「三囲(みめぐり)」という話ですが、それなら、「三巡(みめぐり)」にならなければ、おかしいはずです。

 そして、この神社は、ある特徴的な鳥居があるので有名なのですが、それが下の3本足の鳥居です。

         

 これは、もともと三井邸にあったものをこの神社に移したもので、その原型は、京都太秦の木嶋坐天照御魂(このしまにますあまてるみたま)神社にあると境内に表示されています。

 この鳥居を見れば明らかなように、本当の社名の由来は、「井戸をつの鳥居でっているから、三囲」でしょう。このように、表向きの説明を用意しながら、裏で別の理由があるのが神社の面白いところです。

 そして、三囲(みめぐり)神社の社名の中にも、十字架を表象する「井」があり、基本的に「三井」と同じこと、つまりは、「父と子と聖霊の三位一体」を意味すると考えることができます。

 また、上記の3本足の鳥居は、3本の柱で、やはり、同様のことを表象していると言えるでしょう。


 さらに、当該神社の主祭神は、宇迦之御魂(うかのみたまの)命ですが、これがまた、大国主神の物語と関わってきます。



6.宇迦之御魂神の山、そして、まとめ

 少し話は戻りますが、「稲羽(いなば)」と、「稲」から始まった物語の最後は、大国主神が須佐能男(すさのおの)命に次のように言われたように、「宇迦(うか)の山のふもと」で「宇迦(うか)」です。
宇迦(うか)の山のふもとに、太い宮柱を深く掘り立て、空高く千木(ちぎ)をそびやかした宮殿に住め。こやつよ」
 「宇迦(うか)」は食べ物、穀物を表す言葉ですが、「宇迦(うか)の山」は、「宇迦之御魂(うかのみたまの)神がいる山」を暗示していると思われます。

 宇迦之御魂(うかのみたまの)神は穀物の神様であり、京都の伏見稲荷大社の主祭神です。そして、その正体は、別記事で指摘した通り、再臨のキリストです。

 宇迦之御魂(うかのみたまの)神は右図のように、一般に鎌を持った姿で描かれますが、それは、『ヨハネの黙示録』に描かれた下記の再臨のキリストを表したものなのです(※詳細は記事「5-(32).稲荷神社と「ヨハネの黙示録」(その1)」を参照)。
『ヨハネの黙示録』 14章14-16節
 また、私は見た。見よ、雲が起こり、その雲には人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた
 
すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて刈り取って下さい。地の穀物は実ったので、刈り入れる時が来ましたから。」
 
そこで、雲に乗っておられる方が、地に鎌を入れると地は刈り取られた。
 この記述は、再臨のキリストが実をならせることが出来た人々を刈り取る様子を描いたものですが、『ヨハネの黙示録』のこの箇所では、人々を「穀物」として表現しています。

 よって、穀物である稲も人々の象徴であり、大国主神が「稲」から始まって、最終的に「宇迦(うか)の山」で宮殿を建てて住むことは、次のことを示しているのです。
 稲に象徴される人間が、様々な苦難を乗り越えて永遠の命を得、最後に神の都に住んでキリストと共に王となる。
 これは、『ヨハネの黙示録』に記された、世界感、終末観が反映されたものに他なりません。
『ヨハネの黙示録』 2章6節
 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、私は神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう
『ヨハネの黙示録』 20章6節
 この第1の復活にあずかる者は幸いなる者、聖なる者である。この人々に対しては、第2の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる
『ヨハネの黙示録』 22章5節
 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である
『ヨハネの黙示録』 22章14節
 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は幸いである。

 以上、これまで説明してきた大国主神の物語は、人間が永遠の命を得て神のもとへと至る過程が、ユダヤ教のカバラとキリスト教の思想をもとに構成されている話なのです。

 そして、大国主神の物語に描かれた、裏の趣旨を記載すると以下の通りです。
 永遠の命を得てキリストのもとへと行けるのは、大国主神のように、困っている人に親切で、かつ、適切な知恵を持った人間でなくてはならない。そういう人にしか門は開かれない。
 そして、数々の苦難・試練が訪れるが、ふさわしい者には必ず助けが入って乗り越えることができ、いずれ、神の国へと至って永遠の命を得、キリストと共に王となることができるだろう。

 大国主神の物語には、神道の奥義中の奥義が隠されていると言えるのではないでしょうか。

                     








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