5-(52).気比大神の正体(スサノオ)


 神功皇后が、反乱を起こした香坂(かごさかの)王と忍熊(おしくまの)王の兄弟を平定し、その後、(みそぎ)をしようとして向かった敦賀で、応神天皇は気比(けひの)大神と名前を交換することになります。

 そのことは、古事記にて、次のように記載されています。
<気比の大神と酒楽の歌(概略)>
  応神天皇が高志の(みちのく)角鹿(つぬが)(※越前(現・福井県東部)の国敦賀)にいた時、伊奢沙和気(いざさわけ)の大神が夢に出てきて、「私の名を御子(みこ)の御名と交換して欲しい」と言われ承諾をします。
 そして、「明日、浜に出なさい。名を交換する贈り物をあげよう」と言われ、翌日、浜に出てみるとイルカが打ち上げられていました。それを見た応神天皇は「我に御食(みけ)()給へり」と言います。
 それゆえ、その神の名を讃えて、御食津(みけつ)大神と名付けました。それは、今に気比(けひの)大神と言う神のことです。
 伊奢沙和気(いざさわけ)の大神(=御食津(みけつ)大神・気比(けひの)大神)と名前を交換したと言いながら、応神天皇の名には、この神に由来する名前などなく、腑に落ちない内容となっています。

 しかし、これは、拙著『古事記に隠された聖書の暗号』に記載した通り、注目すべきは、応神天皇が言った次の言葉です。

      「我に御食(みけ)()給へり」

 この言葉の、「()」は「()」にかかっており、実は、「私に、『ミケ』の名前を下さった」と言うことを示唆しているのです。

 ただし、「ミケ」という言葉も、応神天皇の名前の中にはありません。

 そして、「ミケ」という言葉を名前に持っているのが初代天皇の神武天皇なのです。神武天皇は以下の通り、名前に「ミケ(御毛)」を持っています。なお、「食」と「毛」で当てられた漢字は違いますが、どちらも上代特殊仮名遣いでは乙類に属して、同じ音を表わします。
若御毛沼(わかみけぬの)(みこと)(又の名、豊御毛沼(とよみけぬの)(みこと)

 つまり、この古事記の上記「気比の大神と酒楽の歌」の物語は、応神天皇と神武天皇が同一人物であることを暗示するためのものなのです。
 また、応神天皇と神武天皇では、以下の点で行動が一致しています。
○九州から大和へと東征し、敵対する兄弟と戦う
※応神天皇の場合は、東征したのは幼児の時で、実際にそれを行ったのは母の神功皇后。
※神武天皇の物語には、応神天皇の話の他に、旧約聖書のモーセの物語も盛り込まれている。
※四人兄弟の末っ子である神武天皇の兄の一人も「ミケ」の名を持っているが、それは、応神天皇が二人兄弟だったのを二倍して4人兄弟にした為。(※詳細は、拙著『古事記に隠された聖書の暗号』を参照)
 なお、応神天皇と神武天皇が同一人物というだけでなく、それ以前の系譜も以下の通り、一致していることは、拙著に記載した通りです。

古事記 神話の時代と人の時代の系譜
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 さて、ここまでが拙著で記載したものですが、拙著では、応神天皇が名前を交換した気比(けひの)大神の正体を明かしてはいませんでしたので、当記事で明らかにしたいと思います。

 まず、正体を明らかにする為のヒントですが、応神天皇が名前を交換して「ミケ」の名前をもらっていますから、その神の名前には元々、「ミケ」があったはずです。

 そして、その観点で探してみると、「ミケ」の名前を持った神が一人います。スサノオです。

 ただし、古事記や日本書紀に記載されているスサノオの名前には、「ミケ」はありません。
 しかし、島根県八束郡八雲村にある熊野大社の主祭神は「神祖(かむろぎ)熊野(くまのの)大神(おおかみ)(くし)御食野(みけぬの)(みこと)」で、これは、スサノオの別名だとされているのです。

 「御食野(みけぬ)」と、応神天皇が言った「我に御食(みけ)()給へり」の「御食(ミケ)」がまさに含まれており、また、神武天皇の名前の「若御毛沼(わかみけぬの)(みこと)豊御毛沼(とよみけぬの)(みこと)」と「ミケヌ」まで一致しています。

 つまり、応神天皇が名前を交換した気比(けひの)大神とは、スサノオのことだったのです。

 なお、上述の熊野大社は、出雲大社と共に出雲国一宮で、『出雲國風土記』にも記載の見られる由緒正しい神社です。


 さて、気比(けひの)大神の正体が分かったところで、さらに、つっこんで考えてみましょう。

 古事記の製作者は何故、そのような名前交換の話をこの箇所で挿入したのでしょうか。


 その理由を明らかにするためには、先に、今まで当HP等で解明してきた事項の、おさらいが必要です。

 名前交換の話の前は、神功皇后が東征し、反乱軍を平定した話でした。

 この、神功皇后の東征の話は、私の説では、スサノオ側に奪われた天皇位をアマテラス側が奪還する話です。

 古事記の表向きの系譜は、以下の通りですが、
I崇神天皇 − J垂仁天皇 − K景行天皇 − L成務天皇 − M仲哀天皇 − N応神天皇
 本当は以下の通りで、万世一系は一旦、中断します。
I崇神天皇 − J垂仁天皇 − M仲哀天皇 −−−−−−−− N応神天皇

                    - K景行天皇 − L成務天皇 − 
                       (スサノオ)     (ニギハヤヒ)
 真の初代天皇はI祟神天皇で、J垂仁天皇の後は、一旦、仲哀天皇が継承しますが、K景行天皇(スサノオ)に天皇位を奪われてしまいます。
 そして、K景行天皇(スサノオ)が死んだ後も皇位は返還されることなく、スサノオの子のL成務天皇(ニギハヤヒ)に継承され、その後、皇位を奪還する為に、兵を起こしたのが神功皇后なのです。

 なお、本件の詳細については、以下の記事に記載していますので、そちらを参照願います。
記事「5‐(13).浦島太郎の正体(その2)
記事「5‐(14).浦島太郎の正体(その3)
記事「5‐(15).浦島太郎の正体(その4)
記事「5‐(16).浦島太郎の正体(その5)
 さて、ここまで説明すれば、神功皇后の東征後に、何故、応神天皇とスサノオが名前を交換しなければならなかったかは明らかでしょう。

 この、名前交換の物語は、スサノオ系からの皇位の返還を象徴しているのです。


 さらに、この、名前交換の物語の続きを見てみましょう。
<気比の大神と酒楽の歌(現代語訳)>
 さて、御子(みこ)が都に帰って来られた時、その母君の息長(おきなが)(たらし)日売(ひめの)(みこと)(※神功皇后)は、御子を祝福して待酒(まちざけ)を造って、御子に献上された。その時、その母君はお歌でこう仰せられた。

 この御酒(みき)は、私が(かも)したものではありません。この御酒(みき)は、酒をつかさどるお方で、常世に居られ、この国では石像として立っておられる少名(すくな)御神(みかみ)が、祝福して狂い踊り、踊り回って(かも)して(たてまつ)ってきた御酒(みき)です。すっかり飲み干して下さい。さあさあ。

 このように歌って、太子に大御酒(おおみき)(たてまつ)られた。
 神功皇后が名前交換の旅から帰ってきた応神天皇に酒を勧め、その酒は、少名(すくな)御神(みかみ)が祝福して狂い踊って(たてまつ)った酒だと歌っています。
 少名(すくな)御神(みかみ)とは、大国主神と共に国造りをした少名(すくな)毘古那(びこなの)神のことです。

 そして、少名(すくな)毘古那(びこなの)神は、拙著で記載した通り、その正体は、真の初代天皇であるI崇神天皇です。

 つまり、神功皇后は、息子に対して、初代天皇である崇神天皇の酒を飲めと歌っているのです。
 そのことは、応神天皇に皇位を継げと言っているに等しい行為であり、まさに、そのことを歌っているのです。

 また、歌にある、「祝福して狂い踊り、踊り回って」と言うのは、敵対勢力を排除し、無事、息子の皇位継承を果たした、神功皇后の大きな喜びを表わしたものに他なりません。


 以上、自説に従えば、古事記の曖昧な箇所が明確になり、また、一見、唐突に現れる話も、きちんと関連を持って見えてくることになることが分かるでしょう。


<追記> 2012.10.3
 自説では、『古事記』の応神天皇の条に記載されている天之日矛(あめのひぼこ)、及び、『日本書紀』の垂仁天皇の条の都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)をスサノオと同一人物としていますが、都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)は渡来した際、越国の笥飯浦(けひうら)(※上記の応神天皇の話の舞台と同じ)に上陸し、都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)の額に角があったので、その地が「角鹿(つぬが)」と名づけられたと『日本書紀』には記載されています。

 つまり、都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)の容貌がその地名の元になったのであり、その角鹿(つぬが)で祀られている気比(けひの)大神の正体は、スサノオ(=都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)天之日矛(あめのひぼこ))で間違いないと思われます。







◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『消された大王饒速日

神一行 学研M文庫
熊野大社HP    






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