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 5-(64).猿田毘古神=イエス・キリスト(その1)


 猿田毘古(さるたひこの)神の正体がイエス・キリストであることは、他の記事で指摘した通りですが、当記事では、他記事で指摘した内容に新たな情報を追加した上で、再度、その論証をまとめておきたいと思います。

 なお、以下の記事については、当記事へ統合した為、削除しました。
5-(45).猿田毘古神の本当の名前


1.猿田毘古神=天照国照神

 猿田毘古神は、アマテラスの孫であるニニギが地上に降臨する際、先導役を果たした神ですが、以降では、『古事記』の記述を軸に、随時、『日本書紀』の記述にも触れながら、猿田毘古神の正体を明らかにして行きたいと思います。

 まずは、『古事記』の猿田毘古神の登場シーンからです。
邇邇芸(ににぎの)(みこと) 2.猿田毘古神」 <『古事記』・現代語訳>
 さて、日子(ひこ)邇邇芸(ににぎの)(みこと)が天降りなさろうとするときに、(あめ)八衝(やちまた)にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。

※標題は『古事記』(倉野憲司校注/岩波文庫/1963)のものを使用
※現代語訳は『古事記(上)全訳注』(次田真幸/講談社学術文庫/1977)を参考にした。
 (あめ)八衝(やちまた)とは、「天上から降る道の、いく筋にも分かれる辻」(*1)ことで、旅の行く先を決める岐路となる重要な場所に猿田毘古神はいました。

 そして、猿田毘古神は「上は高
原をらし、下は葦原中らしていると表現されています。

 この文章の一部を取り出すしてつなげると、
「天照国照神」となります(※)。
(※)本件に関しては以下の書籍を参考にした。
『失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎』(飛鳥昭雄・三神たける/学研/1998) P.392-394

 神道の最高神である「天照大神」に近い名前ですし、また、私が「男性版三位一体の神」であるとしている「天照国照彦(あまてるくにてるひこ)天火明(あめのほあかり)櫛玉(くしたま)饒芸速日(にぎはやひの)(みこと)」の一部とも同じです。(※「男性版三位一体の神」については後述。

 神々の名は、その職能や権能などの特徴をそのまま名にしたものも多いですが、上記のような表現で、猿田毘古神がアマテラスに匹敵する神であることが表されています。

 そして、自説では、アマテラスの真の正体はイエス・キリストであり、また、先に記載した通り、猿田毘古神も同様です。結局は同じ神なのですが、合祀している神が異なっているだけの違いです。
(注)神道における、合祀、分祀などの神の概念については以下の記事を参照
○「日本神道における神の概念

 なお、イエス・キリストも光の神、つまり、らす神でもあります。例えば、以下の通り、『ヨハネの福音書』の冒頭では、イエス・キリストを「光」と表現しています。
『ヨハネの福音書』 1章1-9節 (新共同訳)
 初めに(ことば)があった。(ことば)は神と共にあった。この(ことば)は、初めに神と共にあった。万物は(ことば)によって成った。成ったもので、(ことば)によらずに成ったものは何一つなかった。(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、全ての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。その光は、まことの光で世に来て全ての人を照らすのである。
 また、他にも以下のように、イエス自身も自らを「世の光」と称し、さらに、「最後の審判」の後に現れる神の都では、キリスト(=小羊)が明かりとなると記載されています。
『ヨハネの福音書』 8章12節 (新共同訳)
 イエスは再び言われた。「私は世の光である。私に従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
『ヨハネの黙示録』 21章11−23節 (新共同訳)
 私は、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊が都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである
 このように、イエス・キリストも光の神なのです。


 また、上記で、猿田毘古神は、(あめ)八衝(やちまた)にいたと記述されていました。これは、イエス・キリストが以下の通り、天の父のみもとへと続く唯一のであり、また、いわゆる「最後の審判」において、人々が天の御国に行けるかどうかを判断する神だからでしょう。
 それが、地上から天へと昇る際の要所(逆に、天から地上へと降りる際の要所でもある)にいたという形で表されているのだと思われます。
『ヨハネの福音書』 14章6−7節 (新共同訳)
 イエスは言われた。「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない。あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
『マタイの福音書』 25章31−41節 (新共同訳)
人の子(*)、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
 そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く
 そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい
 〜(中略)〜
 それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

※「人の子」・・・キリストのこと
『ヨハネの黙示録』 20章11−15節 (新共同訳)
 私はまた、大きな白い玉座と、そこに座っておられる方とを見た。天も地もその御前から逃げて行き、行方が分からなくなった。
 私はまた、死者たちが、大きな者も小さな者も、玉座の前に立っているのを見た。幾つかの書物が開かれたが、もう一つの書物も開かれた。それは
命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた
 海は、その中にいた死者を外に出した。死と陰府(よみ)も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。死も陰府(よみ)も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた

※上記は、命の書に名が記されていない者への処遇が書かれた部分だが、一方、記されている者は、神の御国に住むことが出来る。

 さて、『古事記』では猿田毘古神の容姿については触れられていませんが、『日本書紀』の方には詳しく記述されていますので、そちらを見てみましょう。
『日本書紀 第九段一書(一)』 (訓み下し文)
 已にして(あまくだ)りまさむとする(ころ)に、先駆(さきはらひ)(かみ)(かへ)りて(まう)さく、「(ひとり)の神有りて、(あまの)八達之(やち)(また)()り。其の鼻の長さ七(あた)(そびら)の長さ七(さか)余り。(まさ)に七(ひろ)と言ふべし。(また)口尻(くちわき)(あか)耀()れり。眼は八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、■然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)()れり」とまうす。

訓み下し文『日本書紀(一)』(坂本太郎 他(校注)/岩波文庫・1994)を使用した。
※■・・・「赤へん+色」
 これは、天孫降臨する際、斥候の神が猿田毘古神を見つけ、それを報告したものです。

 ここに記載された猿田毘古神の容姿をまとめてみましょう。
鼻の長さ (あた)
身長 (さか)余り。(まさ)に七(ひろ)と言ふべし
口尻 (あか)耀()れり
八咫鏡(やたのかがみ)の如くして、■然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)()れり(※■・・・「赤へん+色」)
 『日本書紀(一)』(岩波文庫)の説明によると、鼻の長さの「(あた)」は以下の通りです。
『日本書紀(一)』(坂本太郎 他(校注)/岩波文庫・1994) P.353
咫は説文に「中夫人手長八寸( 二)( 一)」とあり、音はシ。周制の八寸、今の16cm弱
 よって、鼻の長さは、七(あた)で112cm弱(16cm×7)ということになります。

 そして、背の高さの「尺」は、すいません、よく分かりませんでした。

 上記の説明によると、1(あた)=八寸なので、1寸は2cm弱(16cm÷8)となります。そして、現在、10寸=1尺とされているので、結果、1尺は20cmになります。そうすると、七(さか)は140cmということになりますが、あまり背が高くない数値なので、おそらく間違っています。

 次に、同じく背の高さの「(ひろ)」は、
「両手を左右にひろげた時の両手先の間の距離」で1.515m(広辞苑)。これは、広辞苑の説明なので、当時の長さは異なるかも知れませんが、これをもとに計算すると身長は七(ひろ)で約10mとなります。

 こちらの数値の方が鼻の長さの112cmとバランスがとれているのですが、これらの表現は字義通りに捉える必要はなく、「非常に大きかった」という意味でしょう。

 さらに、口尻(くちわき)、つまり、口のわきが明るく輝き、眼は、八咫鏡(やたのかがみ)のようで、赤酸醤(あかかがち)(ほおずき)のように輝いていたと記述されています。


 このように、超巨大で、眼や口が輝いている猿田毘古神ですが、この記述は、おそらく、『ヨハネの黙示録』から来ています。

 『ヨハネの黙示録』の該当箇所を見てみましょう。
『ヨハネの黙示録』 1章12−15節 (新共同訳)
 私は、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く目はまるで燃え盛る炎、足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き、声は大水のとどろきのようであった。右の手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出て、顔は照り輝く太陽のようであった。
 これは、ヨハネが見たキリストの姿ですが、まず、目の表現を見てみると、「まるで燃え盛る炎」とあり、これが、猿田毘古神の場合は、■然(てりかがやけること)赤酸醤(あかかがち)()れり」と、「ほおずきのように赤く輝いていた」という表現に変わっています。

 また、猿田毘古神の場合は、何故、口尻(くちわき)が輝いていたのか分かりませんが、『ヨハネの黙示録』を見れば、それは、「鋭い両刃の剣が出て」いたからだと分かります。

 さらに、猿田毘古神は、身長などに「七(あた)」、「七(さか)」、「七(ひろ)」と、やけに「七」という数字が用いられていました。

 一方、上記の『ヨハネの黙示録』の引用箇所にも2か所に「七」という数字が出ていますが、『ヨハネの黙示録』では「七」という数字が頻出します。「七つの教会」、「七つの封印」、「七つの角と七つの目」、「七つのラッパ」、「七つの平鉢」などなど。

 「七」は、『旧約聖書』において、神が七日間で天地を創造したように、
「完全、完成、全体、成就」を意味する数字であり(*1)、また、『ヨハネの黙示録』には、いわゆる「666の獣」なるものも登場しますが、「六」は「七」に一つ足りない不完全な数字です。

 おそらく、『日本書紀』では、「666の獣」と対比させ、完成された存在としてのキリストを表現する為に、あえて、「七」を三つ登場させているのではないかと思われます。

 ちなみに、、『古事記』や『日本書紀』において、「非常に大きいもの」を表現する際に使われている数字は通常、「八」です。例えば、「八咫鏡(やたのかがみ)」、「八尋殿」、「八尺の勾玉」、「八尋鮫」、「八尋白智鳥」などがあります。

 『日本書紀』における猿田毘古神の表現で、意図的に「八」を使わずに、「七」を使用していることが分かるでしょう。

(*1)『新約聖書』 (新約聖書翻訳委員会訳/岩波書店/2004) P.849 注釈六


 また、猿田毘古神の身長の「七(ひろ)」を字義通りに捉えれば、先述の通り、約10mで非常に巨大ですが、これは、旧約聖書の『ダニエル書』の記述がイメージされているのではないかと思われます。

 預言者ダニエルは、紀元前6世紀頃、ユダヤ人がバビロン捕囚にあって強制移住させられていた頃の人物ですが、『ヨハネの黙示録』と似た表現が取られている所があるので見てみましょう。

 まず、次のものはダニエルが幻視した神の姿です。
『ダニエル書』 7章9−10節 (『旧約聖書W 諸書』 旧約聖書翻訳委員会訳/岩波書店/2005)
 なおも眺めていると、やがて、王座が設けられ、日の老いたる者(※神の呼称)がそこに座った。その衣は雪かとまがうように白く、その頭髪は羊毛のように清く、その玉座は火の炎、その車輪は燃えさかる火、その前から火の河が流れ出し、何千人もが彼に仕え、何万人もが彼の前に立っていた。
 次に、ダニエルの前に現れたのは天使ガブリエルの描写です。
『ダニエル書』 10章4−8節 (『旧約聖書W 諸書』 旧約聖書翻訳委員会訳/岩波書店/2005)
 1月24日のこと、私は大河ティグリスの河畔にいた。目をあげて見ると、そこには、亜麻布をまとい、腰にウパズの純金の帯をあてた一人の人がいた。その身体は黄玉のよう、顔は稲妻のよう、眼は燃え盛る松明のよう腕と脚は滑らかな青銅のよう語る声は大群衆の声のようであった。
 その幻を見たのは私ダニエルだけで、
私と一緒にいた人たちはその幻は見なかった。にもかかわらず、彼らは非常な戦慄に襲われて、逃げ出し、姿が見えなくなった。
 私はただ独り残って
この大きな幻を見たが、私の力はもはや私に残らず、私の体面は失せ、私はなんの力も確保できなかった
 これらの記述は、『ヨハネの黙示録』に描写されたキリストの姿と似ていることが分かります。似ている箇所を抽出して比較してみましょう。
『ヨハネの黙示録』
イエス・キリスト
『ダニエル書』
神、及び、ガブリエル
その頭、その髪の毛は、白い羊毛に似て、雪のように白く その頭髪は羊毛のように清く
胸には金の帯 腰にウパズの純金の帯
目はまるで燃え盛る炎 眼は燃え盛る松明のよう
足は炉で精錬されたしんちゅうのように輝き 腕と脚は滑らかな青銅のよう
声は大水のとどろきのよう 語る声は大群衆の声
 このように、『ヨハネの黙示録』のキリストの姿は、『ダニエル書』の神と天使ガブリエルの姿を多少表現を変えた上で、一部情報を追加しただけのものになっています。

 また、上で引用した『ヨハネの黙示録』には、「人の子のような方がおり」という記述がありましたが、「人の子」という表現は、そもそも、『ダニエル書』でメシアを表す時に使用されている表現です(例えば、7章13節)。

 このように、『ヨハネの黙示録』の作者が、『ダニエル書』を意識していたのは間違いないと言えるでしょう。


 そして、上記の『ダニエル書』の記述の中に、「大きな幻を見た」という表現があります。
天使ガブリエルは巨大だったのです。

 また、『ダニエル書』は、イエス自身が自らを「人の子」であると称していたように(例えば、『マルコの福音書』9章31節)、キリスト教徒にとって、イエス・キリストの到来を予言した重要な書物の一つです。


 以上、おそらく、猿田毘古神の巨大さの表現は、『ヨハネの黙示録』と『ダニエル書』との関連を知った上でのものではないかと思われます。

 さらに、『ダニエル書』では、天使ガブリエルのあまりの神力・迫力に圧倒されたのか、一緒にいた人たちは、「非常な戦慄に襲われて、逃げ出し」、かつ、ダニエル自身も、「私の力はもはや私に残らず、私の体面は失せ、私はなんの力も確保できなかった」と記述されています。

 後で出てきますが、猿田毘古神の正体を探る為に(あめの)宇受売(うすめの)神が選ばれます。そして、その理由として、「い(むか)ふ神と(おも)勝つ神なり」ということがあげられています。そのような、圧倒されたり、気合負けしない神でなくては、ダニエルのように、「なんの力も確保できなかった」という状況になってしまうからでしょう。

 ちなみに、猿田毘古神のように、そこにいるだけで他を圧倒してしまう神など、『古事記』や『日本書紀』を見ても他には存在しません。


 さて、『ヨハネの黙示録』で説明出来たのは(※その関連としての『ダニエル書』も含む)、目と口と巨大さ、そして、「七」という数字だけですが、先述の通り、猿田毘古神の容姿の表現はそれだけではありません。鼻が非常に大きく、眼は「八咫鏡(やたのかがみ)の如く」と表現されていました。

 この鼻と眼の表現については、日本的なオリジナルの要素が表現されていると思われますが、(あめの)宇受売(うすめの)神が登場して来てから合わせて説明します。




 ※(その2)へ続く



◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『失われたイエス・キリスト「天照大神」の謎』
飛鳥昭雄・三神たける 学研
『古事記』
倉野憲司校注 岩波文庫
『古事記(上)全訳注』
次田真幸 講談社学術文庫
『日本書紀(一)』
坂本太郎 他(校注) 岩波文庫
『新約聖書』
新約聖書翻訳委員会訳 岩波書店
『旧約聖書W 諸書』

旧約聖書翻訳委員会訳 岩波書店







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