※当記事は以下の記事からの続きです。
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その1)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その2)」
◆弁才天(弁財天)
弁才天は、もとはヒンドゥー教の河川の神様、水の神様で、サンスクリット語ではサラスヴァティー(※聖なる(豊かなる)河といった意味)と呼ばれており、水の流れる音から、音楽の神、弁舌(知恵)の神としても信仰されていました。
それが、仏教に取り入れられた後、日本にも伝えられ、日本では最初、技芸の神として崇められ、また、市杵島姫と同一視された結果、琵琶を抱く色白の美女の姿で表現されることが一般的になりました。市杵島姫は、アマテラスとスサノオが誓約をした際に生まれた女神の一人です。
この弁才天は、江戸時代に入ると、今度は福徳の神として熱心に信仰されるようになりました。
その理由の一つは、吉祥天と混同されたこと。もう一つは、弁才天の「才」が「財」に通じるからであったと考えられています。実際、弁才天は、現在では、「弁財天」と記載されることの方が多いようです。
さて、弁才天は、(その1)で、三面大黒天の図を用いて説明したように、「再臨のキリスト」の二面性の内の慈悲を表わしており、持っている鍵は、「ダビデの鍵」で知恵の象徴、そして、如意宝珠は、永遠の命を得ることができると言う「いのちの木の実」を象徴しています。
また、「再臨のキリスト」の一面が、女性となっているのは、日本ではイエス・キリストを表向き、女 神であるアマテラスとしているからです。
このアマテラスは拙著『古事記に隠された聖書の暗号』で記載した通り、日本の創成期に活躍した三人の巫女とイエス・キリストを合祀したものであり、その巫女の一人は、上で登場した市杵島姫とも呼ばれています。
また、七福神の一柱として寺社で祀られる弁才天は、このような三面大黒天ではなく、左下の図のような宇賀神と習合した姿のものが多いようです。
図では分かりにくいですが、頭の上に鳥居がのっており、その下にいるのが宇賀神です。
宇賀神は農業や穀物の神様であり、通常、人頭蛇身で表わされ、その由来は宇迦之御魂神にあると一般に考えられています。
私も、宇賀神と宇迦之御魂神は同一神だと考えており、つまりは、その正体はイエス・キリストです。

「八臂弁才天」
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宇賀神 (三鷹市井の頭)
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では、何故、イエス・キリストが正体である宇賀神が、蛇身で表わされるのでしょうか。
それに対する私の答えは次の通りです。
キリスト教には「予型」という概念があり、それは、「『旧約聖書』における数々の事象が、『新約聖書』におけるイエス・キリストおよび教会の予型(予兆・前兆)として記述されているという考え方」です。
その「予型」の一つに、「青銅の蛇」があります。
「青銅の蛇」は、『旧約聖書』の『民数記』に登場するもので、次のような内容です。
『民数記』21章4-9節 (概要)
モーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出し、葦の海の途中までやってきた時に、民が不平不満を言ったので、神が蛇を送り、かまれた人々から死者が出た。
民がモーセに許しをこうと、モーセは神の言葉に従って、青銅の蛇を作り、旗竿の上に掲げると、この蛇を見たものは、蛇にかまれた者でも生き伸びることができた。

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この「青銅の蛇」の話では、かつて、アダムとイブを誘惑したために、神によって呪われて地を這う存在にされ、最低のところまで卑しめられた蛇が、今度は、神の言葉によって、人々に救済をもたらす存在となっています。
キリスト教では、この話は、十字架にかけられるイエス・キリストの「予型」であるとされています。イエス・キリストも罪人とされ、人々に罵られ、辱められた上で十字架にかけられることによって、人類に救済をもたらしました。
つまり、蛇はイエス・キリストの象徴でもあるわけです。
さらに、上記の八臂弁才天では、鳥居があって、蛇の姿の宇賀神が配置されています。
鳥居は私の解釈では、記事「5-(26).鳥居の密儀」で記載したように、三つの十字架を組み合わせて作られた形象です。
そして、イエスが架けられた十字架は、日本ではT字のものだったと考えられていたようであり、また、旗竿の形も通常、T字です。
つまり、鳥居があって、そこに蛇がいると言うこと、それは、上述の「青銅の蛇」を表象したものに他ならないのです。
そして、上記図の八臂弁才天が、頭の上に宇賀神を乗せているのは、この弁才天が宇賀神(=イエス・キリスト)の現れの一つであることを示していると言えるでしょう。
また、手に持っている、矛、弓、金剛棒(宝杵)、剣と言った武具は、神に反する獣やその信従者たちを打ち破る戦神としての特性を表わし、鍵は「ダビデの鍵」で知恵の象徴、如意宝珠は「いのちの木の実」の象徴です。
残った持ち物は、輪宝ですが、これはもともと古代インドの投擲用武器ですが、仏教では、仏の説法を象徴するものとされており、つまりは、キリストの教えを象徴しています。
八臂弁才天以外の他の弁才天の姿も解釈してみましょう。
弁才天と言えば、一般的に良く知られているのは琵琶を持った姿でしょう。七福神の絵でも、上のような「八臂弁才天」ではなく、琵琶を持った姿で描かれるのが通常です。

江の島神社「妙音弁財天」
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この琵琶は、『ヨハネの黙示録』に登場する「竪琴」と捉えることが可能です。
『ヨハネの黙示録』では、次のように竪琴が登場します。
『ヨハネの黙示録』14章1-3節
また、私は見た、すると小羊がシオンの山の上に立っていたではないか。小羊と共に、14万4千人の人々も立っていたが、その人々の額には小羊の名前と小羊の父の名前とが書かれていた。
また、私は大水の轟のような、また激しい雷鳴のような声が天から響いて来るのを聞いた。私が聞いたその声は、竪琴を弾く人たちが琴をかき鳴らしつつ歌う歌声にも似ていた。
彼らは玉座の前で、また四匹の生き物と長老たちとの前で、新しい歌のようなものを歌っている。その歌は、地上から贖われた14万4千人の人々の他は、誰一人として歌うことができなかった。 |
『ヨハネの黙示録』15章2-3節
また、私は、火の混じったガラスの海のようなものを見た。このガラスの海のほとりには、かの獣と、獣の像と、獣の名前を作り上げる数とに勝利した者たちが神の竪琴を抱えて立っていた。
これらの者たちは神の僕であるモーセの歌と小羊の歌を歌っている。彼らはこう歌っているのである、「全能者にして神なる主よ、あなたの御業は偉大にして驚くべきものです。諸民族の王よ、あなたの道はいずれも正しく、また真実な道です。 |
ここに登場する「モーセの歌」、「小羊の歌」とは、旧約聖書と新約聖書のこと。そして、「新しい歌」とは、「再臨するキリスト」が新たに説く教えのことです。
そして、これらの歌を歌う時に、竪琴が使用されています。
つまり、竪琴は、神の教えを象徴するものであると言えるでしょう。そして、竪琴の日本版として使用されているのが琵琶なのです。
なお、上述のように、弁才天は、知恵の象徴である「ダビデの鍵」を持っていましたが、ダビデも竪琴の名手とされ、サウル王の憂愁を慰めるために竪琴を奏でました。(サムエル記上16章14-23節)

竪琴を弾くダビデ
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※(その4)へ続く。
◆参考文献等
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