5-(24).広隆寺、大避神社、いさら井の配置、及び、三柱鳥居 |
太秦の地にある広隆寺と大酒神社(大避神社)といさら井。
太秦と大避神社は、それぞれ、景教(注)の用語でキリスト教の寺院を意味する「大秦寺」とダビデを意味する「大辟」に対応し、いさら井は「イスラエルの井戸」に対応しているという説があることは「5-(21).広隆寺と摩多羅神」にて述べました。
(注)景教・・・古代キリスト教派の一つのネストリウス派の中国での呼び名。マリアの称号「神の母」を否定し、431年のエフェソス公会議で異端として排斥され、ローマの地を離れ中国(唐)に伝わった。「景教」は中国語で「光の教え」という意味。
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大避神社といさら井は元々は広隆寺の境内にあったのですが、大避神社は明治の神仏分離令により広隆寺から東に約100mの地に移設され、いさら井は広隆寺の境内の縮小により現在は境内から少し離れた民家のそばにあります。
これらの三つの寺社、井戸の配置を調べてみると面白いことが分かります。
まず、いさら井は広隆寺の本殿である上宮王院(※太子堂とも言う)から見て真西の方向にあります。
次に大避神社ですが、移設される前の正確な位置は分からなかったのですが、次の図を見る限り、上宮王院の真西にあったものと思われます。
※画像をクリックすると大きいサイズのものが見れます。(※新ウインドウが開きます))
安永九(1780)年に刊行された「都名所図会」に掲載されていたもの |
おそらく、元々は広隆寺の本殿と大避神社といさら井は東西に一直線に並んでいたのでしょう。
これは明らかに意図的な配置であり、裏内宮である広隆寺だけでなく、大避神社といさら井も特別の意味を持っていることを示しています。
そして、その特別の意味とは、最初に述べた「大避=大辟=ダビデ」と「いさら井=イスラエルの井戸」でしょう。
また、広隆寺の東へ約400mのところには、木嶋坐天照御魂神社という神社があります。
当社は本殿、東本殿、拝殿から成り、東本殿の蚕養神社にちなんで通称「蚕の社」と呼ばれています。なお、これらの社殿は明治以降に再建されたものです。
そして、この神社も広隆寺や大避神社と同じく、製陶・養蚕・機織などの技術を持って渡来した秦氏が建立したとされています。
本殿の主祭神は天之御中主命、大国魂神、穂々出見命、鵜茅葺不合命。東本殿(蚕養神社)の祭神は、保食神、木花咲耶姫、雄略天皇です。
創建年は不明ですが、続日本紀の大宝元年(701)4月3日の条に神社名が記載されていますので、創建がそれ以前であることは確かなようです。
この神社の境内には三柱鳥居と言われる三本足の変わった鳥居があります。
社殿の西の年中湧水している池(※「元糺の池」と呼ばれる)の中に建てられおり、三つの鳥居が合体した形で上から見れば正三角形を形成しています。
この三柱鳥居について、景教博士と呼ばれた佐伯好郎氏(1871-1965)は「キリスト教の三位一体を表している」という説を唱えています。
その説を簡単に説明すれば、「神を数える時、一柱、二柱・・・とするように、柱は神の象徴。その柱が三本立っているので、つまり、神が三柱いることになる。キリスト教において三柱の神とは、父と子と聖霊の三位一体に他ならない」というものです。
もちろん、この説の前提として、「太秦=景教の寺院をあらわす『大秦』寺」、「大避=大辟=ダビデ」、「いさら井=イスラエルの井戸」などの解釈があります。
私も基本的にこの説に賛成です。
ただし、この三柱鳥居という形が出来上がった発想の前提について独自の考えを持っています。
「5-(23).弥勒菩薩=再臨のキリスト」で述べたように、広隆寺の二体の国宝の弥勒菩薩は、それぞれ異なった手の形でキリスト教の三位一体を表していました。
その手の形とは、@「薬指と親指を合わせ、薬指と親指と手の平で三角形を作る」というものと、A「親指、人差し指、中指の三本を立てる」というものでした。
@ |
A |
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私は、この三位一体を象徴する手の形が三柱鳥居の発想の元になったのではないかと考えています。
具体的に言えば、Aで立てた三本の指の上に@で作った三角形を乗せた形。それに鳥居の要素を盛り込んで出来たのが三柱鳥居ではないでしょうか。
そう考えれば、裏内宮である広隆寺の2体の弥勒菩薩の手が三柱鳥居の形を暗示しているとも言えますし、また、広隆寺の近くにこのような変わった鳥居が存在しているという理由も説明できるのではないでしょうか。
なお、「5-(18).広隆寺と籠神社の配置(裏内宮と裏外宮)」で「その内側が特別な領域であることを示しているのではないか」と記載した、「松尾大社―上賀茂神社―下鴨神社」が形成する二等辺三角形の中に、上で記載した広隆寺、大避神社、いさら井、木嶋坐天照御魂神社の全てが位置しています。
さて、三柱鳥居ですが、この鳥居と関係が深いのが三井財閥の三井家です。
三井家は創業以来、木嶋坐天照御魂神社を信仰しており、また、東京都墨田区には三囲神社という神社がありますが、ここにも三柱鳥居があり、境内には「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社にある」と表示されています。
つまり、三囲神社の三柱鳥居は、元々は三井邸にあったものであり、それを三囲神社に移したというのです。
三井家と三柱鳥居との浅からぬ関係を物語る話であると思います。
また、「三囲」という社名は、「白狐が神像の回りを3回めぐったから」という由来らしいのですが、いかにも表向きの取ってつけたような由来です。
もし、本当にそうであるなら、「三囲」ではなく「三巡」でなくてはなりません。むしろ、「三つの柱で囲んでいる」から「三囲」でしょう。この表向きの嘘くさい由来が逆に、三柱鳥居の重要性を物語っていると言えます。
神道というのは表と裏を使い分け、表に対する説明用にどうでもいい理由を用意しておきながら、裏でしっかりと別の理由を持っています。だからこそ、神道は面白いと言えるでしょう。
さて、三井家です。三井家の信仰は木嶋坐天照御魂神社への信仰というより、むしろ、三柱鳥居への信仰と言っていいでしょう。そうでなければ、わざわざ、邸宅に三柱鳥居の模倣品を祀ったりしません。
そして、「三柱鳥居=キリスト教の三位一体」であるとするならば、「三井」という名前に面白い事実が隠されていることが分かります。
まず、「三井」の「井」に「囲」と「井」の両方の意味が託されていると考えると、「三井」は「三つで囲まれた井」となります。
「井」には「泉や流水から、水をくみとる所」という意味があり(日本語源大辞典・小学館)、「三つで囲まれた井」とは、木嶋坐天照御魂神社の元糺の池で水が湧き出る所に建てられた三柱鳥居を示す名前と解することができます。
次に「三井」を「三つイ」と考えれば、「三つ1」となります。つまり、「3つの1」。これは、三位一体を表すものに他なりません。
------------------------------ 以下 2009.09.06 追加 ----------------------------------
なお、中国の唐の時代、西暦781年に景教徒が建立した「大秦景教流行中国碑」では、三位一体を次のように表現しています。
「三一妙身」・・・三位一体の父ヤハウェ
「三一分身」・・・三位一体の子イエス・キリスト
「三一浄風」・・・三位一体の聖霊
つまり、景教において、「三一」は三位一体を意味するわけです。
------------------------------ 以上 2009.09.06 追加 ----------------------------------
おそらく、三井家は三柱鳥居がキリスト教の三位一体を表すものであることを知った上で信仰してきたのではないでしょうか。
ちなみに、広隆寺や木嶋坐天照御魂神社などを建てたのは秦氏ですが、「秦」という字を分解すると「三人ノ木」になります。
木とは神が宿るものですから、つまりは、「三人ノ神」。(※「秦」=「三人ノ木」は飛鳥昭雄氏が既に指摘しています)
つまり、太秦の地に関わる秦氏と三井家の双方とも、三位一体に関連する名前を持っているわけです。
三柱鳥居がキリスト教の三位一体を表すものであることは、まず、間違いないでしょう。
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