七福神と『ヨハネの黙示録』(その5)


 ※当記事は以下の記事からの続きです。

    ○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その1)」   
    ○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その2)

    ○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その3)
    ○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その4)


◆布袋

 布袋は、七福神中、唯一実在の人物で、『事類全書』によると、長丁子(ちょうていし)と号した唐代末期の契此(かいし)を始め、宋の僧了明、元の布袋、元末の棗陽(そうよう)の張氏の男などの四人が布袋だとされています。

 彼らはいずれも巨大な太鼓腹に、いつも半裸という風体。杖と大きな袋を携え、袋の中に身のまわりの物を入れて、放浪生活を送っていました。

 また、最初に布袋と呼ばれたのは、唐代の契此(かいし)ですが、常に袋を背負っていたことから、そのように呼ばれるようになり、また、町や村の家々を訪れては物乞いをし、食べ物をもらうと全部食べないで、残り物は袋の中に入れておいたと言われています。

 そして、布袋については他にも、次のような特徴があったとされています。

@.雪の中に臥しても、身体が濡れなかった
A.人に吉凶を示すと、かならず、期に応じており、誤ったことがなかった。
B.雨が降りそうな時、濡れ草履をはいて、急ぎ足で歩き、照り上がった日には、高木履(たかきぐつ)をひきずり、橋の上に膝を立てて眠る。したがって、世の人々は布袋の行動で天気を予知することができた。
C.布袋は錫杖(しゃくじょう)と布の袋の他は物を持たないが、十八人の子供をいつも従えて歩く。子供たちが誰の子であるか、どこから来たかは誰も知らない。

 このような布袋ですが、日本では、鎌倉・室町期に禅僧の画題として好まれて描かれました。
 また、七福神としては、大きな袋をかつぎ、手には団扇や杖を持つ姿が一般的です。


布袋『日本風俗図絵』

安養寺(武蔵野市)・布袋


 さて、最初の布袋の契此(かいし)ですが、917年に亡くなった時に時世の句として、次のような言葉を残しました。

弥勒真弥勒 分身千百億
時々示時人 時人自不識

 簡単に訳せば、弥勒には分身が千百億あって、現世に人々が知らない間に姿を現すと言うことです。
 この句によって、実は布袋は弥勒の化身なのだという伝聞が広まり、中国では布袋が弥勒視されることになりました。

 また、日本でも、鎌倉時代の説話集である『十訓抄』に「布袋和尚は弥勒の所作なり」と記されていることから、布袋=弥勒という図式が伝わっていたことが分かります。

 つまり、布袋の正体は、下生して人々を救済する弥勒であると捉えられていたのです。

 そして、未来において下生し人々を救済する弥勒とは、「再臨のキリスト」に他なりません。

 現に、私が、裏内宮であるとしている広隆寺の二体の国宝の弥勒像は、双方ともに右手で「三位一体」を示す形を作り、弥勒の正体が「再臨のキリスト」であることを明示しています。(※詳細は、記事「5-(23).弥勒菩薩=再臨のキリスト」を参照」)



 以上、弥勒である布袋が七福神に加えられたのは、当然であると言えるでしょう。




 ※(その6)へ続く。


◆参考文献等
書 名 等 著 者 出 版 社
『図説 七福神』
戎光祥出版
Wikipedia「布袋」
Wikipedia「増長天」




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