※当記事は以下の記事からの続きです。
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その1)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その2)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その3)」 ○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その4)」
◆布袋
布袋は、七福神中、唯一実在の人物で、『事類全書』によると、長丁子と号した唐代末期の契此を始め、宋の僧了明、元の布袋、元末の棗陽の張氏の男などの四人が布袋だとされています。
彼らはいずれも巨大な太鼓腹に、いつも半裸という風体。杖と大きな袋を携え、袋の中に身のまわりの物を入れて、放浪生活を送っていました。
また、最初に布袋と呼ばれたのは、唐代の契此ですが、常に袋を背負っていたことから、そのように呼ばれるようになり、また、町や村の家々を訪れては物乞いをし、食べ物をもらうと全部食べないで、残り物は袋の中に入れておいたと言われています。
そして、布袋については他にも、次のような特徴があったとされています。
@.雪の中に臥しても、身体が濡れなかった
A.人に吉凶を示すと、かならず、期に応じており、誤ったことがなかった。
B.雨が降りそうな時、濡れ草履をはいて、急ぎ足で歩き、照り上がった日には、高木履ををひきずり、橋の上に膝を立てて眠る。したがって、世の人々は布袋の行動で天気を予知することができた。
C.布袋は錫杖と布の袋の他は物を持たないが、十八人の子供をいつも従えて歩く。子供たちが誰の子であるか、どこから来たかは誰も知らない。
|
このような布袋ですが、日本では、鎌倉・室町期に禅僧の画題として好まれて描かれました。
また、七福神としては、大きな袋をかつぎ、手には団扇や杖を持つ姿が一般的です。

布袋『日本風俗図絵』
|

安養寺(武蔵野市)・布袋 |
さて、最初の布袋の契此ですが、917年に亡くなった時に時世の句として、次のような言葉を残しました。
簡単に訳せば、弥勒には分身が千百億あって、現世に人々が知らない間に姿を現すと言うことです。
この句によって、実は布袋は弥勒の化身なのだという伝聞が広まり、中国では布袋が弥勒視されることになりました。
また、日本でも、鎌倉時代の説話集である『十訓抄』に「布袋和尚は弥勒の所作なり」と記されていることから、布袋=弥勒という図式が伝わっていたことが分かります。
つまり、布袋の正体は、下生して人々を救済する弥勒であると捉えられていたのです。
そして、未来において下生し人々を救済する弥勒とは、「再臨のキリスト」に他なりません。
現に、私が、裏内宮であるとしている広隆寺の二体の国宝の弥勒像は、双方ともに右手で「三位一体」を示す形を作り、弥勒の正体が「再臨のキリスト」であることを明示しています。(※詳細は、記事「5-(23).弥勒菩薩=再臨のキリスト」を参照」)
以上、弥勒である布袋が七福神に加えられたのは、当然であると言えるでしょう。
※(その6)へ続く。
◆参考文献等
|