<気比の大神と酒楽の歌(概略)> 応神天皇が高志の前(みちのく)の角鹿(つぬが)(※越前(現・福井県東部)の国敦賀)にいた時、伊奢沙和気(いざさわけ)の大神が夢に出てきて、「私の名を御子(みこ)の御名と交換して欲しい」と言われ承諾をします。 そして、「明日、浜に出なさい。名を交換する贈り物をあげよう」と言われ、翌日、浜に出てみるとイルカが打ち上げられていました。それを見た応神天皇は「我に御食(みけ)の魚(な)給へり」と言います。 それゆえ、その神の名を讃えて、御食津(みけつ)大神と名付けました。それは、今に気比(けひの)大神と言う神のことです。
若御毛沼(わかみけぬの)命(みこと)(又の名、豊御毛沼(とよみけぬの)命(みこと))
○九州から大和へと東征し、敵対する兄弟と戦う ※応神天皇の場合は、東征したのは幼児の時で、実際にそれを行ったのは母の神功皇后。 ※神武天皇の物語には、応神天皇の話の他に、旧約聖書のモーセの物語も盛り込まれている。 ※四人兄弟の末っ子である神武天皇の兄の一人も「ミケ」の名を持っているが、それは、応神天皇が二人兄弟だったのを二倍して4人兄弟にした為。(※詳細は、拙著『古事記に隠された聖書の暗号』を参照)
I崇神天皇 − J垂仁天皇 − K景行天皇 − L成務天皇 − M仲哀天皇 − N応神天皇
I崇神天皇 − J垂仁天皇 − M仲哀天皇 −−−−−−−− N応神天皇 - K景行天皇 − L成務天皇 − (スサノオ) (ニギハヤヒ)
記事「5‐(13).浦島太郎の正体(その2)」 記事「5‐(14).浦島太郎の正体(その3)」 記事「5‐(15).浦島太郎の正体(その4)」 記事「5‐(16).浦島太郎の正体(その5)」
<気比の大神と酒楽の歌(現代語訳)> さて、御子(みこ)が都に帰って来られた時、その母君の息長(おきなが)帯(たらし)日売(ひめの)命(みこと)(※神功皇后)は、御子を祝福して待酒(まちざけ)を造って、御子に献上された。その時、その母君はお歌でこう仰せられた。 この御酒(みき)は、私が醸(かも)したものではありません。この御酒(みき)は、酒をつかさどるお方で、常世に居られ、この国では石像として立っておられる少名(すくな)御神(みかみ)が、祝福して狂い踊り、踊り回って醸(かも)して献(たてまつ)ってきた御酒(みき)です。すっかり飲み干して下さい。さあさあ。 このように歌って、太子に大御酒(おおみき)を献(たてまつ)られた。
<追記> 2012.10.3 自説では、『古事記』の応神天皇の条に記載されている天之日矛(あめのひぼこ)、及び、『日本書紀』の垂仁天皇の条の都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)をスサノオと同一人物としていますが、都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)は渡来した際、越国の笥飯浦(けひうら)(※上記の応神天皇の話の舞台と同じ)に上陸し、都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)の額に角があったので、その地が「角鹿(つぬが)」と名づけられたと『日本書紀』には記載されています。 つまり、都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)の容貌がその地名の元になったのであり、その角鹿(つぬが)で祀られている気比(けひの)大神の正体は、スサノオ(=都怒我阿(つぬがあら)斯等(しと)=天之日矛(あめのひぼこ))で間違いないと思われます。
◆参考文献等 書 名 等 著 者 出 版 社 『消された大王饒速日』 神一行 学研M文庫 熊野大社HP