5-(63).鏡餅と三種の神器と蛇(その4) |
※当記事は(その1)、(その2)、(その3)からの続きです。
6.鏡餅とイエス・キリストの磔刑
(その3)では、鏡餅が、「旧約聖書の『青銅の蛇』を模したものではないか」という自説を記載しましたが、次に、この「青銅の蛇」のキリスト教での解釈を見てみたいと思います。
旧約聖書の「青銅の蛇」のエピソードは、キリスト教において「イエス・キリストの磔刑」とオーバーラップして捉えられます。
キリスト教には「予型」という考え方があり、それは、旧約聖書における数々の事象が、新約聖書におけるイエス・キリスト、及び教会の予型(予兆・前兆)として起きたとする考え方です(*10)。
「青銅の蛇」のエピソードもこの「予型」の一つで、青銅の蛇が掲げられた竿は十字架、青銅の蛇はキリストを表し、青銅の蛇が掲げられることによって人々の毒が消し去られ、死を免れたように、キリストが十字架に架けられることによって人々の罪が贖われ救いがもたらされたと考えます。
この「予型」の概念で言えば、「青銅の蛇」のエピソードは、後に起きる「イエス・キリストの磔刑」の予兆・前兆として神によって示されたものなのです。
そして、その考え方に従えば、「鏡餅の形状=青銅の蛇」であるならば、鏡餅は「イエス・キリストの磔刑」をも表していることになります。
また、イエス・キリストは磔刑に処されて死亡した後、復活を果たし、人々に永遠の命へと入る道を示しましたから、まさに、正月の「魂の再生・更新」というテーマとも合致することになります。
さらに、正月は穀物神である年神を迎える日でありますが、イエス・キリストを穀物神として捉えることも可能です。
例えば、以下は『ヨハネの黙示録』の記述ですが、再臨のキリストが天使に誘われ、地上の穀物の刈り入れを行っています。
『ヨハネの黙示録』 14章14−16節 (新共同訳・日本聖書協会)
また、私が見ていると、見よ、白い雲が現れて、人の子のような方がその雲の上に座っており、頭には金の冠をかぶり、手には鋭い鎌を持っておられた。すると、別の天使が神殿から出て来て、雲の上に座っておられる方に向かって大声で叫んだ。「鎌を入れて、刈り取って下さい。刈り入れの時が来ました。地上の穀物は実っています」。そこで、雲の上に座っておられる方が、地に鎌を投げると、地上では刈り入れが行われた。
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ここでは、キリストが、雲に乗って再臨して、穀物の刈り入れを行う存在として描かれています。
穀物は人々の象徴。そして、かつてキリストはイエスという名で肉体をもった際、教えと信仰という種をこの世に撒いたのです。
『ヨハネの黙示録』における、このような記述から、イエス・キリストを穀物神として捉えることも可能であり、私は、古代日本において、キリストは穀物神としても捉えられ、稲作と共に伝来した穀物神への信仰と習合した(※正確には、意図的に習合させた)のだと考えています。
例えば、他の記事でも指摘しましたが、穀物神で、稲荷神社の主祭神である宇迦之御魂神も、キリスト教の影が色濃く見えますが、詳細は下記の記事を参照願います。
<参考記事>
さて、「鏡餅=青銅の蛇=イエス・キリストの磔刑」、そして、「年神=穀物神=イエス・キリスト」と解釈してきましたが、鏡餅とキリスト教との関連を示す事例は、まだ他にもあります。
7.鏡開きと聖餐
鏡餅は飾った後、正月11日などに家庭で食べられます。いわゆる鏡開きです。
そして、これまで述べて来た通り、「鏡餅=青銅の蛇=イエス・キリストの磔刑」であるなら、特に、餅の部分は、「餅=蛇=イエス・キリスト」であり、人々はイエス・キリストを食べていることになります。
さらに、鏡餅は先述の通り、三種の神器の一つの八咫鏡を模したものであり、また、ニニギが天孫降臨する際に、アマテラスが「これの鏡は、専ら我が御魂として、我が前を拝くが如で拝き奉れ」(古事記)と言って授けたものであり、つまり、「八咫鏡=アマテラスの魂」です。
よって、八咫鏡を模した餅を食べるということは、アマテラスの魂を食べるに等しい行為であり、また、自説では、アマテラスの正体はイエス・キリストですから、やはり、人々はイエス・キリストを食べていることになります。
ここまで、記載すれば、ピンと来た方もいらっしゃると思いますが、似た儀式がキリスト教にあります。そう、聖餐です。
聖餐は、イエス・キリストの最後の晩餐に由来する儀式で、カトリックでは「聖体拝領」、「聖体の秘跡」、プロテスタントでは「聖餐式」と呼ばれます(*11)。
イエス・キリストは、磔刑に処される前の晩に、12使徒たちと共に最後の晩餐をした際、次のように述べています。
『マタイの福音書』 26章26−30節 (新共同訳・日本聖書協会)
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これは私の体である」。また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流される私の血、契約の血である。言っておくが、私の父の国であなた方と共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい」。一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。
(注)引用した箇所には明記されていないが、杯に入っているのはワイン |
つまり、「パン=イエスの体」であり、「ワイン=イエスの血」であるわけです。
そして、この最後の晩餐に由来して、キリスト教徒が今も聖餐という儀式を行っている理由について、『コリントの信徒への手紙 一』に記載されています。
『コリントの信徒への手紙 一』 11章23−26節 (新共同訳・日本聖書協会)
わたしがあなた方に伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなた方の為の私の体である。私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい」と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。 |
イエス・キリストがこの世に来られた記念として、そして、「主が来られる時まで、主の死を告げ知らせる」為に、聖餐を行い続けるわけです。
一方、鏡開きで鏡餅、つまりは、イエス・キリストの体を食べるという行為には、キリスト教の聖餐と全く同じ意味が隠されているのではないかと思われます。
また、餅とパンの原料は、それぞれ米と麦で異なっていますが、パンという食べ物の無かった日本では、パンと同じく穀物から作られるものとして餅が選ばれたのでしょう。
なお、鏡餅が聖餐のパンに当たるのなら、当然、ワインに相当するものも無くてはなりません。上記の聖書の記述を見ても分かる通り、聖餐では、パンとワインは一セットのものだからです。
それでは、さて、正月に飲む定番の飲み物とは何でしょうか?
そう、御屠蘇です。
御屠蘇は、一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む薬酒のことで、日本では平安時代からの風習だと言われています。基本的には関西以西の西日本に限られたもので、他の地方では、単に正月に飲む祝い酒のことを御屠蘇と称している場合もかなり多いようです。
また、この、正月に屠蘇を呑む習慣は、唐の時代の中国で始まり、「屠蘇」とは「『蘇』という悪鬼を屠る」という意味のようです(*12)。
一見、キリスト教とは何の関係もないように見えますが、「屠蘇」という名前に着目してみると、「屠る」、「蘇る」という漢字から成り、意図的に文章化すれば、「屠られて蘇る」と解釈することが出来ます。
そして、屠られて蘇った者と言えば、イエス・キリストに他なりません。
このように、正月に飲む酒である「屠蘇」の名は、イエス・キリストを暗示するものであり、鏡餅と同じく「屠蘇」もイエス・キリスト自身であると言えます。鏡餅をイエス・キリストの体に仮託したように、「屠蘇」という酒をイエス・キリストの血に擬したのでしょう。
おそらく、中国の「屠蘇」の風習を広めたであろう集団・人物は、「屠蘇」という漢字に着目し、鏡餅の風習と合わせて日本に広めたのではないかと思われます。
以上、これまで、鏡餅に関連して述べて来たことをまとめましょう。
鏡餅は、日本の三種の神器を表すと共に、ユダヤの三種の神器をも表すものである。
そして、鏡餅全体の形状は、旧約聖書の「青銅の蛇」を表すと同時に、「イエス・キリストの磔刑」を表してもいる。
さらに、鏡開きで鏡餅を食べることは、イエス・キリストの体を食べることを意味し、これはキリスト教の聖餐の儀式と同じことで、鏡餅は聖餐のパンに当たる。
一方、同じく正月に飲む「屠蘇」は、「屠られて蘇る」という意味が隠されていて、イエス・キリストを表す言葉であり、「屠蘇」の方は聖餐のワインに当たる。「屠蘇」を呑むことの隠された意味は、イエス・キリストの血を呑むことである。
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このような自説が正しいとすれば、日本という国は実は隠されたキリスト教国家。日本人の誰もが知らず知らずの内に、キリスト教に関する飾り物をし、キリスト教の儀式を実施していると言えるでしょう。
(*11)Wikipedia「聖餐」
(*12)Wikipedia「屠蘇」
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