※当記事は以下の記事からの続きです。
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その1)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その2)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その3)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その4)」
○「七福神と『ヨハネの黙示録』(その5)」
◆寿老人・福禄寿
寿老人は、中国の道教において、「南極老人星(寿星)」を神格化したものです。
この星は、現在、竜骨座のα星(*)である「カノープス」に当たり、全天ではシリウスに次いで2番目に明るい星です。
カノープスは、赤緯マイナス52度40分に位置するため、南半球では容易に観測できますが、中国では稀にしか見ることができません。(ちなみに、日本では東北地方南部より南の地域でしか見ることはできません)
そのことから、中国では、天下泰平の時にだけ出現する、めでたい星と信じられ、この星が現れると人々は競って幸福と長寿を祈ったそうです。
また、この星は、皇帝の寿命を支配するとも考えられており、歴代の皇帝たちは、寿星祠・寿星壇を築き、自らの長寿と天下の平和を祈ったと言われています。
この南極老人星(寿星)は人格化され、唐代になると、黒い頭巾を被って、杖をつく老人の姿で描かれるようになりました。これが日本に伝わって、七福神のメンバーに加えられることになります。

寿老人『日本風俗図絵』
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延命寺(武蔵野市)寿老人 |
七福神として描かれる寿老人は、頭に頭巾を被り、杖を持つ姿が一般的で、時に、杖に巻き物をぶらさげていたり、また、鹿を従えていることもあります。
なお、寿老人が鹿を従えているのは、「鹿」と「禄」が同音であることから、「福禄の神様」であることを表わすためであると考えられています。
この、南極老人星を神格化した寿老人ですが、中国では宋代になると、全く異なった姿で描かれるようになります。
それは、頭が異様に永く、豊かな白ひげをたくわえた、背の低い老人の姿です。この姿が日本に伝わり、福禄寿と呼ばれるようになって、これも七福神に加えられました。

南極老人星『列仙全伝』
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ただし、福禄寿という名前は本来、福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した三体一組の神を表わしたものです。この神は、中国において明代以降に広く民間で信仰され、春節には福・禄・寿を描いた「三星図」を飾る風習があります。
福星は木星とされ、その三星図において、多くは裕福な官服を着た黒髪の姿で三者の中心に描かれます。また、禄星は、豊かさを表す金銭や嬰児を抱いた姿で描かれることが多いようです。そして、寿星は先述の通り、南極老人星(カノープス)のことで、宋代以降は禿げた長大な頭に白ひげをたくわえた老人とされることが多いようです。
つまり、日本で七福神として描かれる福禄寿の姿は、実は寿星を神格化した寿老人のもの。そして、福禄寿という名前は、福星・禄星・寿星の三星をそれぞれ神格化した三柱の神を指したものと言うことになります。
日本の福禄寿は、かなりの部分で寿老人とかぶっていると言えるでしょう。
なお、福・禄・寿というのは、道教で理想とされる「福」(幸運と子孫に恵まれること)と「禄」(金銭に恵まれること)と「寿」(長生きすること)のことです。
また、七福神の福禄寿は、頭でっかちで白ひげ、手には杖や巻物を持つ姿が一般的で、他にも巻物を手に持っていたり、杖に巻物をぶら下げているのものもあり、寿老人が鹿を連れているのに対して、鶴が一緒に描かれることも多いようです。

大法禅寺(武蔵野市)・福禄寿 |
さて、寿老人や福禄寿の元となった南極老人星は、上記の通り、中国では皇帝たちは、自らの長寿と天下太平を祈ったとされていますから、長寿と天下太平をもたらす星であると言えるでしょう。
キリスト教、特に『ヨハネの黙示録』において、真の天下太平とは「神の国の到来」であり、また、長寿とは「永遠の命」です。
よって、この寿老人と福禄寿は、「神の国の到来」をもたらし、また、人々に「永遠の命」をもたらす存在として、七福神に加えられたのではないかと思われます。
『ヨハネの黙示録』11章15節
第七の天使がラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。
「この世の国は、私たちの主、および、そのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」 |
『ヨハネの黙示録』21章6節
事は成就した。私はアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。私は、渇く者には、いのちの泉から対価なしに飲ませる。 |
また、二神とも、杖を持っていますが、それは、「再臨のキリスト」が持つ、「鉄の杖」と捉えることが可能です。
『ヨハネの黙示録』12章5節
女は男の子を産んだ。その子は、鉄の杖でもって、全ての民族を支配することになっている。 |
そして、福禄寿や寿老人は、巻き物を持っていたり、杖に巻き物をぶらさげる姿で描かれることがありますが、これらが長寿(=永遠の命)を象徴しているとすると、その巻き物の正体は、「いのちの書」になります。(※通常、寿老人等が持つ巻き物には、長寿を手に入れるための仙術が書かれているとされています)
『ヨハネの黙示録』21章15節
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第2の死である。
いのちの書に名の記されていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。 |
「いのちの書」とは、永遠の命を与えるべく定められている人々の名前が書かれた書物で、キリストたる小羊が持っているとされます。
さらに、福禄寿について注目したいのは、赤山明神の化身であるとされることです。
赤山明神とは、比叡山の麓にある赤山禅院で祀られている神です。
赤山禅院は、仏教寺院でありながら、参道には鳥居があるという変わった寺で、創建は仁和4年(888年)。慈覚大師(円仁)が唐の赤山で修業した際に禅院の建立を発願しましたが、果たせないまま没し、後にその遺言に従って建てられました。
また、赤山禅院の本尊である赤山明神の本地は、泰山府君であるとされています。
泰山府君は道教の神で、仏教で言えば閻魔大王に当たり、地獄界を支配して、死者を裁く神です。(※ただし、仏教に取り入れられてからは、閻魔大王の一眷属となりました)
つまり、福禄寿=泰山府君で、福禄寿は死者を裁く神であると言うことになります。
そして、『ヨハネの黙示録』に登場する「再臨のキリスト」も、「最後の審判」において人々を裁く神でもあります。さらに、人々を裁く際に使用する書物が上述の「いのちの書」なのです。
『ヨハネの黙示録』には、次のような記述もあります。
『ヨハネの黙示録』21章12節
また、私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の1つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書き記されているところに従って、自分の行いに応じて裁かれた。 |
この記述では、「最後の審判」の際、「いのちの書」以外にも複数の書物があり、それらには、人々の生前の行為や罪悪が書かれているのだと思われます。俗に言う、閻魔帳です。
そして、この「最後の審判」で、火の池に投げ込まれなかった者、つまり、「いのちの書」に名前が記載されていた者は、永遠の命が与えられ、神の国の住人になることができるのです。
以上、福禄寿には(おそらくは、寿老人も)、「いのちの書」などの書物に従って「最後の審判」を行い、実を成らせることが出来たと判断した者たちに、永遠の命を与える再臨のキリストの姿が投影されていると言えるでしょう。
◆参考文献等
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